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忘れ得ぬ人びと 人生一期一会(7)

木馬館と安来節、そして浪曲の輝き(上)

本当に木馬があった木馬館

もう少し浅草六区の思い出を続けさせていただく。姫ゆり子さんがSKDを退団する頃から私は国際劇場の舞台から少しずつ遠のいていった。相変わらず国際劇場を根城にはしていたので、まず浅草六区へ行けば、国際劇場へ顔を出すのは習慣のようになっていたが、もうひとつ私が虜になっていたのは、安来節の木馬館と松竹演芸場だった。

木馬館そのものの思い出は、はるか戦前、私の幼児時代に遡る……。木馬館はもともと本当の木馬館だった。要するに薄暗い室内に設けられた回転木馬で、大正5、6年頃から震災までの全盛時代には、英国風でモダンな施設として子供より大人に人気があった程だという。

現在の遊園地に見られるような、軽快な音楽にのって回転する華やかなライトに彩られたメリーゴーランドではなくて、私の知っている木馬館は、埃っぽい室内で、ゴットンゴットン木製の円盤の上を自動車やお馬さんがまわっていた。

その木馬館は戦後いち早く、昭和21年秋には再開している(一説には、昭和22年7月という説もある)。

しかし、昭和31年12月、木馬は姿を消し、当時、全国にただ一軒といわれた民謡演芸場木馬館として生まれ変わった。

現在の木馬館は1階が、これもめずらしい浪曲の定席で、2階は大衆演劇の館になっているが、昭和30年代初め、2階に安来節の木馬館が新装開館した訳である。それ以前にも、2階では安来節の立花梅奴一座が公演していた。

(私の知らない時代の話だが)大正10年頃、その頃東京でも珍しかったモンペ姿の女性の一団が東京駅に降りたち、多くの人目をひいたそうで、その一行が、浅草根岸興行部の招きで、出雲の安来から上京して来た安来節嬢たちであったという。

常盤座でデビューを果たしたこの一座は、たちまち大人気を博し、歌詞が出雲言葉でよく判らないままに大評判となった。これが安来節の東京乗り込みの第一陣だったように聞いている。間もなく第二陣が帝京座に現れ、今や伝説的存在となった美人の大和家三姉妹をはじめ、若いベテランが続々出現して、熱狂的な好評を博した。舞台と客席とのやりとりも楽しく、この帝京座時代はかなり長く続き、吉本興業の介入もあって、浅草六区の安来節は不動の人気を保つようになった。

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根本 圭助

昭和10年2月、東京・南千住に生まれる。第二瑞光国民学校4年生の時罹災。千葉県柏町に移る。小松崎茂に師事。主な仕事は出版物、及び特にTVキャラクターのマーチャンダイジングのイラストで幅広く活躍する。現在松戸市在住。小松崎茂作品を中心に昭和の雑誌文化を支えた挿し絵画家たちの絵を展示する「昭和ロマン館」館長。

 

安来節のさよなら公演をむかえた浅草の木馬館

▲安来節のさよなら公演をむかえた浅草の木馬館

 

まだ本当に木馬が動いていたころの木馬館内部

▲まだ本当に木馬が動いていたころの木馬館内部

 

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浪曲の最後の輝き

私自身が安来節に夢中になったのは新しい木馬館が出来てからだが、すらすらと安来節の思い出を綴っているのは、実は私の父が安来節と浪花節の大ファンで独身時代(昭和の始め頃)から通いつめていたそうで、幼い頃から聞かされたその受け売りが頭にしみこんでしまっているせいである。

親の血をそっくり継いだようで、私も幼い頃から浪曲のファンになっていた。家にあった蓄音器のSP盤も、大半は浪曲だったので、三代目虎丸(鼈甲斎)の「安中草三」や、木村派の友忠、重松、重勝、重友、友衛(初代)をはじめ、楽遊、楽燕……なんて名前と節がどんどん思い出されてくる。特に好きだったのは春日清鶴だったが、夢中でレコードへかじりついていた早熟な少年であった。

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国際劇場でも年に一度『なつメロ大会』が華々しく開かれていたし、昭和26年から浪曲大会も同じく年に一度開かれ、各々満席の盛況をきわめた。しかし、浪曲の方は、昭和34年頃から衰退の兆しを色濃くし、革新浪曲大会ということで、当時の二葉百合子、天津羽衣が受賞したが、時流には勝てなかった。

『節の奈良丸(吉田)、啖呵の辰雄(一心亭、のちの服部伸)、声の良いのが雲右衛門(桃中軒)』とうたわれた浪花節人気も何回かの黄金時代を経て、今残念ながら、その灯は小さくなっている。服部伸は私も間に合って、講釈師に転じた師を上野本牧亭で何回も聞いている。生前の芝清之氏(浪曲研究家)と数度お話を伺う機会を持てたが時代の趨勢は人智の測り知れぬもので、浪曲人気は一気に下落していった。今は、国際劇場を満席にした、春日井梅鴬や、松平国十郎、浪花屋辰造などの往年の名調子に思いを馳せるのみである。

仄聞(そくぶん)によれば、お里、沢市で有名な「壷坂霊現記」の浪花亭綾太郎は、昭和37年、木馬座の舞台で倒れ、数か月後に没したと聞いている。綾太郎師は戦後すぐ初代篠田実とともに柏に巡業に来て11歳頃の私は父に連れられて聞きに行った。綾太郎は当日「は組小町」を読んだが哀艶切々、今もって忘れられない。 さて安来節というと『どじょう掬い』のアラエッサッサーのみを連想する人が多いかと思うが『どじょう掬い』は、いわば大喜利のようなもので、舞台は浪曲の舞台のように、一人ひとり持ちネタを持って登場する。伴奏は、三味線、太鼓、鼓(つづみ)、時として琴も加わる。たとえば、岡田春子姐さん(稲葉雪子姐さんだったかな)はアンコに木村友衛の『河内山』。岡田照子姐さんはアンコに民謡『関の五本松』というように安来節といえどもバラエティに富んでいた。

安来節と安来節の間には、漫才、落語、奇術、歌謡ショーなどいろいろなものが演じられるので、私は売り出し中の柳朝(春風亭)はじめ、多くの落語、漫才などの芸に触れることが出来た。浪曲では林伯猿、東家楽浦、京山華千代、五月一朗、東家菊燕、木村重松(二代)…など挙げたらきりがない。

記憶に残る漫才コンビも多すぎて、ここでは書ききれない。

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文豪も愛した安来節

安来節一座の天野豆子姐さんは肥っていて、三枚目に徹していた。幼い頃、安来節のコンクールに優勝。美声で、若い頃から一座に加わっていたそうだが、ある時、さる宮様の前で演じることになり、事前からいつものバレ唄(すこしわいざつな唄)めいた下品な言葉は禁じられていたそうだが、緊張した豆子さんは、思わず「ななあつー」と声を張りあげてしまった。「えーいしゃあない」豆子さんは一瞬迷ったがいつも通りに「七つ八つからいろはを習い、はの字忘れていろばかり〜」とやってしまった│という。宮様はにこりともしなかったというが、果たしてどの宮様か一寸気になるエピソードではある。

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全盛時の安来節の舞台

▲全盛時の安来節の舞台

手許に、昭和34年1月発行の木馬館の機関誌がある。巻頭に作家で劇評家の安藤鶴夫先生(「巷談本牧亭」で直木賞受賞。著書多数)の『木馬よ』という一文が載っている。

冒頭に記した〈木馬〉が消えた淋しさに一寸触れたあと、「木馬館演芸場の安来節で、ぼくは初めて客と舞台の見事なバランスを発見する」とあり、『「お唄が上手でお人よし、映画女優でいおうなら、山田五十鈴か李香蘭」などと、リズムにのったはやし言葉で舞台と悪態をつき合うお客さんの芸も、もうひとつ立派になったような気がした。舞台と客席とがあんなに親しみを持つ劇場は日本中ほかにあるまい。全く浅草の舞台の伝統は木馬館にだけ残っている』と書いている。また、木馬館の話を東横落語会などでよくお逢いする志賀直哉先生に話したら、志賀先生も夢中になってしまって、一と月のうちに3回も出かけたと聞いてびっくりしたという話も載っていた。

それとは知らず私も志賀直哉先生と同じ客席に居た可能性もあり、改めてドキドキした。

前にも記したが、安来節の合間には、様々な演芸も演じられていた。ある日、コンビを組んだばかりという二人の男性が舞台にあがった。二人とも私は面識があった。

一人は国際劇場の春日八郎ショーの時だかに名調子の司会をしていた宮城けんじさん。もう一人は、玉川良一さんとコンビを組んで幕合いコントを演じていた東けんじさん。

お互いに自己紹介のあと、「二人合わせてWけんじ。どうぞよろしく」といって漫才に入ったが、まだぎくしゃくしてその日の出来はあまり良くはなかった。お二人とも国際劇場の楽屋で面識があったので、『どうぞ成功しますように│』とその時は客席でひそかに祈った。

そして、このお二人とは後日思いがけない再会を果たすことになる。この話は次回にゆずるとして、その昔、来日したチャップリンも六区に現れ安来節のメロディと踊りにワンダフルを連発したといわれる安来節も客足が急速に減り、昭和52年6月1日から30日のさよなら公演をもって閉館することになった。次回でまた詳述するが、その「さよなら公演」は連日長蛇の列で、私もその中の一人だった。何気なく耳にした会話では、木馬館が初めての人が多いらしく、結局マスコミの報道で集まった野次馬的な人が多かった。それが切なく淋しかった。

大正時代から続いた安来節の人気と熱気は、こうしてひっそりと浅草から消えて行った。

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