松戸よみうりロゴの画像

忘れ得ぬ人びと 人生一期一会(29)

東京大空襲─忘れ得ぬ劫火の夜


明日は3月9日。あの忌まわしくも凄惨をきわめた昭和20年の悪夢の夜が脳裏に蘇る。

東京大空襲―一夜にして100万人を超える人たちが劫火(ごうか)で家を焼かれ、10万人もの尊い人命が失われた。

当時私は国民学校(小学校)4年生。満10歳の軍国少年だった。昭和19年6月30日の閣議は学童疎開を決定し、東京都内の国民学校の児童の3年生以上がその対象となり、東京都内の各区別に疎開先の府県が割り当てられた。学童疎開の準備は、夏休みを利用して進められた。

当時の私の母校荒川区立第二瑞光国民学校(荒川区南千住)は疎開先として、福島県飯坂温泉への(学童)疎開が決められた。

私の家は祖父の代からの塗装業―つまりペンキ屋を営んでいたが、機械塗専門のペンキ屋だったので、昭和6年に起こった満州事変、そして昭和12年からの日中戦争及び太平洋戦争へと、軍需産業の需要拡大とともに変な言い方だが家業は安泰で、私などは大家族の中で何不自由ない幼年期を送って来た。

母校は私の家からほんの数軒先だったが、戦局の悪化と同時に食糧も乏しくなり、昼時には、何人かの先生が私の家へ食事をとりに来るようになっていた。

その先生方の口から、「学童疎開へ行けば、食べ物の心配は全然ないし、空襲もなくて安全!」という学校での説明とは反する言葉がひそひそと祖父母や両親に告げられ、そして「学童疎開先の生活なんて行ってみなければ判らない。御親戚があるのだったら、そちらの道を選んだ方がいい」と熱っぽく忠告までしてくれた。

スペース
スペース

根本 圭助

昭和10年2月、東京・南千住に生まれる。第二瑞光国民学校4年生の時罹災。千葉県柏町に移る。小松崎茂に師事。主な仕事は出版物、及び特にTVキャラクターのマーチャンダイジングのイラストで幅広く活躍する。現在松戸市在住。小松崎茂作品を中心に昭和の雑誌文化を支えた挿し絵画家たちの絵を展示する「昭和ロマン館」館長。

 

中島章作が描いた「東京大空襲」

▲中島章作が描いた「東京大空襲」

 

母校の学童疎開は夏休みに実施されたが、私は参加せず、ガランと生徒のいなくなった学校に残り、柏にある父の実家を頼ることになった。いわば「縁故疎開」と呼ばれた道を選んだのである。

母と私と弟妹の4人が柏へ疎開し、残る家族は東京に留まった。昭和19年秋のことだった。

空襲は日増しに激しくなり、柏での生活も楽なものではなかった。いやそれどころか疎開先での毎日は食糧の問題だけでない様々な労苦があり、昭和19年暮れ、子ども心に「死んでもいいか…」と決意し、迎えに来てもらって東京へ戻ってしまった。母と幼い弟妹も同じように一足遅れて帰京した。

日毎夜毎の空襲は激しさを増していたが、家に帰ったお陰で、昭和20年の正月は雑煮も祝うことが出来た。

 

小松崎茂が描いた焼失前の筆者の家の前の町並み

▲小松崎茂が描いた焼失前の筆者の家の前の町並み

スペース

「大空襲」前にも惨劇が

私を溺愛してくれた祖父母とともに死ねたら怖くはない―子ども心にそう深く思いこんでいた。しかし空襲はやはり恐ろしかった。

昭和20年1月27日昼間の爆弾による空襲は、今思い出しても心臓がちぢみあがるような恐怖が蘇る。あの空気を引き裂く言葉では言い表せない耳を劈(つんざ)く鋭い落下音。空からばらばらとドラム缶が落ちてくるように見え、程なくして天地をゆるがす大炸裂音。あれは本当に恐ろしかった。

後年、区の職員の人に調べてもらったが、私の家から直線にすると、500メートル程の所に爆弾は落とされていた。焼夷弾での空襲が多かったなかで、この日の爆弾での空襲は、私の心に大きな恐怖の傷を残した。そして昭和20年2月25日の空襲。その日東京は珍しく雪が降り、その積雪の街をB-29の編隊が襲った。

スペース

当初私の家の裏手から火の手があがり、防護団の人々のメガホンの叫び声に壕を出てみると、浅草方面は火の海。常磐線のかなり高い高架線の土手より高くめらめらと燃えあがる炎が迫って見えた。
三方を火で囲まれた私達は、人々の叫び合う声の中で、日光街道の方角へ逃れるしかないと思い祖母としっかり手を握り合って人の波と合流した。

「学校へ火が入ったぞっ!」と誰かが叫んだが、それは火ではなく雪煙だとすぐに判った。私の家の斜め前に市勢さんという煙草屋があった。どかっと火鉢の前に座った老夫婦は、「人間は死ぬ時は死ぬんだ。慌てるこたあねえ」と外の喧噪をよそに悠々と煙管(きせる)で煙草をくゆらしていたのが何故か忘れられない。この老人は戦後も荒川区で記録的な長寿者となったというから人の運命なんて判らないもんである。

夜になっても周囲の燃えさかる炎で、真昼のような明るさの中を偵察のためかB-29が1機飛来し、超高空を腹にひびく不気味な爆音を残しゆっくり飛び去って行った。この日私達の住む街一帯は罹災(りさい)を免れた。翌朝余塵の中を常磐線のガードをくぐると、一面の焼け野原で、浅草がすぐ目の前に見えて驚いた。

その日の夕暮れ、私達母子は再び柏へ無理に連れ戻されることになった。当時、松戸以遠は電化されていなかったので、松戸で列車に乗り換えなければならなかった。同じように東京から逃れる人達でホームはかなり混んでいた。寒気が少しゆるんだのか、うっすら霧が出ていた。

私の家の辺りは辛うじて残ったが、多くの人は焼けだされた人達で、皆極度に疲れているせいか言葉は少なかった。暗い電灯の下で人々は黙々と汽車を待った。私と同年ぐらいの少女が防空頭巾をすっぽりかぶり私の傍らにしゃがみこんでいたが、その凍りついたような横顔と白い息が今も強く目に焼きついていて、「霧の夜の出来事として忘れ得ず」として深く心に残った。

そして3月9日─悪夢の夜

そして、3月9日の夜半からの大空襲で東京の下町一帯はすっかり焼きつくされ、完全に止めを刺された。私の家も灰燼(かいじん)に帰した。

3月9日深夜、東京下町が全滅する劫火に染まる夜空を、私は柏の疎開先で眺めていた。「高射砲の破片が降ってくるから、外へ出ないほうが良い」という従兄の制止を聞かず私は外へ出た。東京の夜空は端から端まで見渡すかぎり紅に染まり、いつもの空襲とは規模が違うことが認識され、戦慄で、カタカタ歯を鳴らし、わなわなと全身を震わせながら赤く広がる夜空を見続けていた。すべてを失ったが、幸いにして東京に残った家族は皆無事だった。

2日程して、何の用事か忘れたが、母と北小金の親類へ出向いた。その折り、思いがけず北小金駅の構内で近所で家族同様に親しくしていた電気屋さんの一家と偶然巡り合った。郡ちゃん、芳ちゃんという幼馴染みの兄弟も一緒だった。

スペース
スペース

焼野原となった浅草寺境内の雪景色(撮影者不明)

▲焼野原となった浅草寺境内の雪景色(撮影者不明)

電気屋のおばさんは赤ん坊を背にしていたが、赤子はねんねこ半纏(ばんてん)ですっぽり包まれていた。母が顔を覗き見ようとすると、突然「見ないでっ!」とおばさんが悲鳴のような大声をあげ、悲鳴は号泣にかわった。

炎の中を逃げまわる中で、嬰児(えいじ)は煙にまかれて窒息死していたそうで、朝になって気付いたという。これから故郷の新潟へ帰って、心ばかりの供養をするんだということを涙を流しながら話してくれた。

それから汽車が来るまで、ご近所の消息をいろいろ聞かせてもらった。行方不明の人が大半だったが死亡が確認された人、壕の中で一家全滅という家もかなりあった。あの人も、あの人も、そしてあの一家も…おばさんと母の涙涙の会話は汽車が来るまで続いた。

あの夜から64年もの歳月が流れた。

脆弱な軍国少年だった私も、来年は後期高齢者に仲間入りすることになる。空襲で命を奪われた人の中には、私の幼時の思い出につながる人達も数多く含まれていた。

電気屋さん一家は現在吉原大門の近く、日本堤で電気工事店を営んでいる。何とおばさんも健在と先日伺って驚いた。100歳を超えているはずである。

幼年期の私を可愛がってくれた多くの人達が、あの夜消え去った。―それにしても長い長い歳月が過ぎてしまったんだなあという深い感慨に今沈みこんでいる。阿鼻叫喚(あびきょうかん)、地獄絵の中で命を落とした多くの人達に心からなる御冥福をお祈りし、この稿を終わる。合掌。

▲ このページのTOPへ ▲