忘れ得ぬ人びと 人生一期一会(30)戦後の浅草─焦土の中からの復興 |
「街は生きている」という表題で街の変遷を擬人化して書いた誰かの文を読んだことがある。 街をそのように生き物としてとらえるとするならば、街は元気な時もあれば、病む時も、老いることもある。 先月「東京大空襲」に触れたところ、多くの人から同じく空襲の思い出につながる電話やお便りを何通もいただいた。 私を含め、ある世代までは、やはり戦争の影から逃れられない人がたくさんいることを改めて知った。高齢化時代を迎えているとはいえ、実際に戦場で戦った経験を持つ真の「時代の証言者」たる人々はさすがに激減しているし、少なくとも社会の表面からは姿を消している。 一面の焦土と化した東京の街に立った時、「東京は死んだ…」と子供心に深くそう認識した。しかし、つい先日久々に浅草に出向いたところ、仲見世の混雑ぶりにびっくりさせられた。平日だというのに驚くほどの人の波で花見時ではあり、天気もぽかぽか陽気だったせいか凄い人出だった。外国人の観光客が多く目立ち、観音様まで人、人、人で埋まっていた。浅草通いも随分したが一度は元気をなくしたと思われた街が想像を超えて元気になっている。もっともかつてはこの人の波の大半は六区の興行街に流れたが、寄席ブームとあって、浅草演芸ホールは活気があるものの六区は様変わりしてしまった。 観音様にも久々にお参りした。妙な感覚だが私にとっては幼少年期に慣れ親しんだ戦災で焼失してしまった旧本堂が懐かしく、もっと言えば昭和20年10月、いち早く急ごしらえで作られた仮本堂が、これまたたまらなく懐かしい。 現在の立派な本堂が落慶されたのは昭和33年10月のことだが、その頃をピークとして浅草六区の興行街にはかげりが見えはじめた頃で、私個人としては50年を経た今でも現在の本堂は立派ではあるが、何か他人様の家に寄るようなある種の違和感がずっと続いている。 仮本堂は現在境内の隅の方に移された老朽化した淡島堂に代わって、その形をとどめている。戦争が終わり、当時まだあった大池(瓢箪池)の周囲には戦災孤児たちが群がって食をあさっていた。必死で過ごしていた飢餓の時代、終戦の直後に仮本堂が出来たということは、(お堂は小さくとも)戦争が終わったという虚脱感と安堵感を実感する中で大きな心の支えとなって胸に強く刻みこまれた。 |
根本 圭助 昭和10年2月、東京・南千住に生まれる。第二瑞光国民学校4年生の時罹災。千葉県柏町に移る。小松崎茂に師事。主な仕事は出版物、及び特にTVキャラクターのマーチャンダイジングのイラストで幅広く活躍する。現在松戸市在住。小松崎茂作品を中心に昭和の雑誌文化を支えた挿し絵画家たちの絵を展示する「昭和ロマン館」館長。
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林芙美子の短編小説に「下町」(ダウンタウン)というのがある。夫はシベリアに抑留中で、30歳になる主人公「りよ」は幼い子供を抱えてお茶の行商をしている。その行商中に知り合った鶴石という男性に誘われて、まだ見たことのない浅草へ遊びに行くという件(くだり)がある。 「りよは、浅草と云うところは、案外なきたいはずれな気がした。朱塗りの小さい御堂が、あの有名な浅草の観音様なのかとがっかりしている。昔は見上げるように巨きいがらんだったのだと鶴石が説明してくれたけれども、少しも巨きかったという実感が浮いて来ない。只、ぞろぞろと人の波である。この小さい朱塗りの御堂を囲んで人々がひしめき合っている」 この作品の主な舞台は葛飾区だが、戦後の空気が濃密に伝わり、りよの切ない思いが胸を打つ。私は作中の小さなお堂(仮本堂)に今もって限りない愛着と親近感を抱き続けている一人なのである。
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柏の小さな舞台に涙した夜「強いばかりが男じゃないと いつか教えてくれた人…」 藤山一郎の歌で大ヒットした「浅草の唄」だが、これが昭和22年の歌で、当然仮本堂時代の浅草の歌である。渥美清亡きあと、関数六さんが一座を率い、そのテーマソングにしていたが、その関さんも今は亡い。 美空ひばりさんが歌った「ら・あさくさ」(昭33)が、最近SKDのスターだった春日宏美さんのカバーでCDとなった。 因みに「浅草の唄」という同名異曲の歌がこれも藤山一郎の歌で昭和8年に発売されている。「浅草の肌」(竹山逸郎・服部富子・昭25)、「浅草物語」(菊池章子・昭28)など私の好きな歌も多いが、戦前、戦後を含めタイトルに浅草という文字が入った曲は、(手もとの資料で)60曲もある。 歌の話になったが、昭和22年頃柏の当時下(しも)町と呼ばれていた下(しも)の諏訪神社の境内に浅草の芸人さん達が来てくれたことがあった。父がファンだった歌手の浅草紅香(べにか)さん、浪曲漫談の堀井清水さん(トリオだったかな?)、粗末な俄(にわか)舞台の演芸会に夢中になった。 島田を結った振袖姿の紅香さんが、どんな歌を歌ったか記憶にないが、ずっと後の「浮かれ旅唄」(昭27)、「滝夜叉姫の唄」(昭28)、「あなたとならば」(昭28)の3曲のテープが私の手もとにある。 |
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懐かしい歌声で、「あなたとならば」は、若き日の藤島恒夫さんとデュエットしている。 「浮かれ旅唄」の一節「十八、十九は色ざかり、さかりの一枝手折りやんせ…」という歌詞にドギマギした若い日がこれまた懐かしい。堀井清水は大ファンとなったが、後年松竹演芸場で見た折、かつてかなりやせていたのに、でっぷり肥っていて見違えてしまった。 同じく昭和22年頃、柏の小さな会館に浪曲の浪花亭綾太郎と篠田実(初代)一行が来演した。二人とも十八番(おはこ)はやらず、「壺坂霊験記」の綾太郎師は「は組小町」を読み、「紺屋高尾」の篠田実師は「慶安太平記」を読んだ。 私は哀調切々たる綾太郎の「は組小町」に涙をぼろぼろこぼして聞きほれたのを覚えている。たしか中学一年生ぐらいだった。その一行に浪曲漫談の大津お万とその一行が加わっていたが、これまた大ファンになった。 ひとりひとり皆忘れ得ぬ人として心に残っている。 思えば随分とませた子供ではあった。しかしNHKラジオで知られる旧知の民謡研究家・竹内勉さん(昭13生)は、小学生時代から民謡を集めはじめたというから、上には上がいるものである。 |
林家三平と一杯のコーヒーとにかく波瀾万丈の時代をくぐりぬけてきたことだけは事実で、何年か前に「東京の子供百年展」という展覧会が台東区下町風俗資料館で開かれた折も関係者との間で思い出話がつきなかった。下町風俗資料館や浅草公会堂の一部で、時折戦前、戦中の展覧会が開かれるが、「戦時下の子供たち」という題でよく左上の写真が展示されることがある。この写真、実は大きいほうが7歳の私で、隣が1歳年下の弟で、弟はこの少し後疫痢で早世している。 戦後(家は焼失してしまったので)親類宅にあったのを返却してもらった写真である。 ところで、東京大空襲で大打撃を受けた六区興行街だったが、戦時中にもかかわらず辛うじて残った電気館と帝国館に使える器具を持ち寄り、罹災した人々の慰問と励ましのための3日間の無料公演をしたと記録にある。大空襲の翌月、4月12日のことだった。 各館が応急修理し、7月9日の大勝館を最後に14館が開館。戦争中とはいえ、7月中の観客動員数は6万7千名に上ったという。 ─そして終戦。六区は露店の怪しげな食べ物と娯楽を求める人波で日々活気を呈していった。 戦争中も苦しい毎日だったが、戦後の飢餓との闘いも筆舌につくせぬ苦難の毎日だった。 敗戦という初めて味わう極限状態の中で、よく生き長らえたものと感心させられる。 戦後の思い出をもうひとつ。同じく、昭和21、22年頃現在の柏一小の講堂で、やはり演芸会があった。漫談家だったか、奈美乃一郎さん(名前の文字合っているかな?)が座頭格でスマートというかやせた若者を紹介した。 「私の親しくしていた先代林家正蔵師匠の伜で三平と言います。どうか応援をよろしく─」ということで頭がリーゼントスタイルの痩身の青年の出番となった。大仰な身振りで、たしか「地下鉄風景」という演し物だったが、全身汗だくの熱演。しかしあまり笑いはとれなかった。今度2代目が誕生したが、初代の林家三平さんの若き日の姿である。 この話には続きがある。 ずっと後年、昭和30年代─TBSへ打ち合わせに出かけた折、混んでいた局内の喫茶室で三平さんと隣同士になった。私の相手は当時編成局長だったかの宇田博さんだった。宇田さんがちょっと遅れたので、席を確保して一人でいると、三平さんがうやうやしく私にあいさつをしてくれた。私は当時人気絶頂の三平さんにあいさつをされて人違いかと思いオタオタしてしまったが、局の人から三平さんは誰にでも視線が合うとていねいにあいさつするんです─ということを後から聞かされ、納得した。私は礼を返しながら、前述の柏一小での話をしたが、三平さんは目を丸くして驚き、「こわいなァ。あんな昔を覚えていて下さる人がいたなんて…」と言ってすぐに私の分のコーヒーを注文してくれた。私は今でもコーヒー一杯の借りを心の中で温かく受け止めている。 ところで、TBSの喫茶室で待ち合わせをした宇田博さんとは、その後何回かグループでの旅行もし、新たな思い出作りもしたが、今月もそろそろ紙数がつきてしまった。 宇田さんは晩年TBSの役員もつとめられたが、大陸生活を送った若き日の挫折を歌にした「窓は夜露にぬれて 都すでに遠のく…」の「北帰行」の作詩・作曲者だった。 |