忘れ得ぬ人びと 人生一期一会(42)
SKDの舞台を支えた杉浦守さん
根本 圭助
昭和10年2月、東京・南千住に生まれる。第二瑞光国民学校4年生の時罹災。千葉県柏町に移る。小松崎茂に師事。主な仕事は出版物、及び特にTVキャラクターのマーチャンダイジングのイラストで幅広く活躍する。現在松戸市在住。小松崎茂作品を中心に昭和の雑誌文化を支えた挿し絵画家たちの絵を展示する「昭和ロマン館」館長。
先日朝のテレビで、元SKDのスター千羽ちどりさん達が新しい活動を開始するにあたり、そのデモンストレーションとして、秋葉原の路上で名物のラインダンスを披露した様子が放映された。浅草の国際劇場を本拠に華やかな舞台をくりひろげたSKD(松竹歌劇団)の絢爛豪華な絵巻─そして観客の嘆声、どよめき、嬌声も、遠い過去のものとなった。
その国際劇場の舞台の背景美術を、国際劇場の戦後復興開場時(昭22)から閉場(昭57)まで一筋に描き続けた杉浦守さんが、先月─5月5日に静かに世を去った。82歳だった。
生涯を劇場の裏方として戦後の浅草六区の哀歓と共に生きた人で、私にとっては少年時代からの恩人でもあった。
ここでちょっと私事を挟ませていただく─。
戦争が終わって、2か月後の昭和20年10月、私達一家は、疎開先の父の実家から、やっと探しあてた柏の中心部に近いアパートへ移った。古い木造2階建てのアパートで部屋は6畳一間だけ。台所もトイレも共同で、部屋数は、1、2階合わせて24部屋ほどだったか…。
この6畳一間に両親と私と弟妹との5人家族で、飢餓と窮乏の筆舌につくせぬ終戦直後の苦難の日々に私達は突入していった。
戦災ですべてを失い、多くの人々も同様の状況のなかで、この「東部荘」と呼ばれたアパートでのどん底の暮らし。初めて見る進駐軍の姿を好奇心と怯えで見つめた私は、小学6年生だった。寄り道が長くなったが、ここで本題に戻すことにする。
当時は娯楽どころではなかったが、あちこちの空き地や広場で小屋掛けの舞台が作られ、素人の演芸会に大勢の人が群がっていた。出演者の中で一際目立つスター(?)が2人いた。
一人は「つばくろ」と呼ばれたたしか鳶職の人だったと記憶するがこの人のやくざ踊りは群を抜き、正に水もしたたる好い男だった。田端義夫のデビュー曲、「島の船唄」にのって手拭いを鉄火被り。六尺棒を両手で操りながら踊る姿に魅了された私は、帰宅してからいつもその顔と姿を思い出しては紙に描いていた。そしてもう一人のスターが杉浦守さんその人だった。
杉浦さんは19歳で終戦を迎え、熊本の予科練から戻り、名人と言われた舞台美術の沼井春信さんの内弟子となった。この素人演芸の舞台では自ら「張りきり金ちゃん」と名乗り、ギターを弾きながらの川田義雄(晴久)ばりの歌謡漫談はいつも大人気で、柏だけでなく近隣までその名は知れ渡った。本来はイケメンだったのに道化にあくどいメーキャップはもったいないと思ったが、私は今でも金ちゃんの名調子を思い出すことができる。
「月が煌々と照る真暗闇を、一台の列車が音もなく轟々と、北へ北へと南進中…ああ汽車は出て行く煙は出ない。出ないはずだよ無煙炭…」。ギターだけでなく、アコーデオンその他あらゆる楽器をこなし、中年の頃には三味線や尺八まで。その器用さは目を見張るものがあった。
役者志望から背景画の道へ
昭和22年には、大映の第二期ニューフェイスに合格して養成所通いも始めたが戦後の厳しい生活の中で諦めざるを得なくなった。ちなみにその頃の同期には、根上淳さんとか船越英二さん(船越英一郎の父君)達が名を連ねていたという。
当時浅草でめきめき人気者となったシミキンこと清水金一に憧れ、弟子入りを希望したが、断られた上、懇々と諭され、その頃から杉浦さんは背景画家への道に専念することになった。
私が金ちゃんこと杉浦さんと直接出会ったのは、中学一年生の頃だったか…杉浦さんは前述の私が住んでいた東部荘に隣接する伊藤文化堂という小間物屋の娘さんと恋仲となり、伊藤さんの敷地の奥に別棟の小さな家を建て新婚生活に入っていた。その裏庭は東部荘の裏手につながり、低い竹の垣根越しにあたたかい湯気に包まれたような愛の巣が眺められた。杉浦さんが絵を描いている姿も見えて、いつしか私は垣根をまたいで遊びに出入りするようになった。
初めて伺った時、杉浦さんは一心に春画を描いていた。何でも進駐軍が土産用に高く買ってくれるそうで、率の良い内職になったそうだが、初めて覗き見た未知の世界に少年の私はくらくらし、「そんな物見せちゃいけません!」と真っ赤に頬を染めて慌てふためく初々しい新妻清子夫人の狼狽振りが、私には更なるショックだった。
それ以来私は、誰にでも親切で世話好きな杉浦さん御夫妻と親しくなり、以後どれ程お世話になったか測り知れない
上がりこんで、食事を馳走になるのもしばしばだった。一時「浅草漬け」になった私は杉浦さんのお陰で国際劇場は楽屋口から出入りできるようになり、「春」「東京」「夏」「秋」のSKDの4大踊りはもとより、岡晴夫、美空ひばりをはじめ、多くの歌手の「実演」を見続けることが出来た。
当時歌手の皆さんにとっては浅草の国際劇場と有楽町の日劇の舞台が、大きなステータスシンボルになっていた。杉浦さんの仕事振りは目を瞠るもので、洋酒や日本酒を呷りながら、徹夜であの大舞台を描き続けていた。
一方で松竹演芸場の大宮敏光さんの「デン助劇場」の舞台やロック座など浅草六区の劇場の舞台も数多く手がけていた。国際の「花と竜」の舞台で玉井金五郎役の村田英雄さんの刺青を公演中毎日描いたのも器用な杉浦さんならではの芸当だった。
SKD出身で後に松竹映画のスターになったYさんからラブレターまがいの手紙を貰ったことがあったが、私にこっそり見せただけで処分してしまった。おそらく私だけが知っている秘密だと思う。
とにかく国際劇場では、客席からだけでなく舞台の袖から、照明室から、オーケストラボックスの隅から、そして花道へ椅子を出して客席の羨望の眼を意識しつつ、色々な舞台を見せていただいた。すべて若気のいたりだが岡晴夫さんや、三波春夫さんや、全盛時の三橋美智也さん、春日八郎さん、フランク永井さん、北島三郎さんなどと束の間とはいえ直接言葉を交わせたのも懐かしい思い出となっている。
みんな杉浦さんのお陰である。
飲めない私との酒の思い出
杉浦さんは酒を一滴も飲めない私をよく飲み屋に誘ってくれた。私は飲み屋の店内のアルコール分を含んだ空気だけで酔ってしまい顔が上気してしまうので、私の顔色を見て、「圭さんと一緒だと景気よく酔える」といって喜んでくれた。
ある時屋台で何人かと飲んでいた時、トイレに行ったまま帰って来ないので、様子を見に行くと狭い公衆便所の中で、今でいうホームレスを集めて酒盛りをしていた。何でも用を足しに行くと、ホームレスが何人かいたので、「酒でも買ってこい!」と金を渡したそうで、そのまま車座になって一升瓶の回し飲みになっていた。汚い公衆便所へ新聞紙を敷きつめ、仲間入りをすすめられた時は流石に参った。
「風邪なんかひく奴は精神がぶったるんでいるからだ!」と言いながら無茶としか言い様のない生活を続けた杉浦さんだったが、やはりその付けは杉浦さんにも廻って来た。
私の長女の七五三のお宮詣りの帰途、杉浦さん宅へ挨拶に寄ったが、その直後杉浦さんは突然倒れた。昭和43年のことである。
長年の無理がたたり、当初病名はよく判らなかったが多発性神経症と診断され、2年8か月もの入院生活を強いられた。退院後しばらくして現場に復帰したものの、国際劇場も姿を消すことになり、熱海の静観荘をはじめ、レストランシアターやテレビの仕事など現場も多岐にわたるようになった。病気の後遺症の右足の軽い麻痺を抱え、平成10年8月2日には、最愛の清子夫人にも先立たれ淋しい毎日になった。
しかし、3人の娘さんに恵まれ、大事にされ、孫達にも囲まれ、その上人の良さから近所の人達にも支えられ、一人暮らしを続けた杉浦さんの笑顔は最後まで消えなかった。
話は前後するが─
私達一家は昭和25年3月市制施行前の柏町明原に小さな一戸建ての家を買って移り住んだ。戦後の思い出がぎっしりつまった東部荘は、昭和38年3月25日、原因不明の昼火事で焼失した。
焼失時、杉浦さんと一緒に舞台の仕事をしていた弟の光(あきら)さん夫妻がその東部荘に居住していたというのも私は不思議な縁を感じた。
杉浦守、平成22年5月5日没。賑燈守道信士。
愛妻の清子さんと再会し仲良くお茶を飲んでいる姿を思い浮かべている。
あーまた一人、私は大事な人を失ってしまった。
同じような思いの幼馴染み高木ブーちゃんと、行きつけの巣鴨のカラオケスナック「カロママ」で歌い合い杉浦さんを偲んだ。