「私の昭和史(第2部)―忘れ得ぬ人びと人生一期一会―」は昭和ロマン館館長・根本圭助さんの交友録を中心に、昭和という時代を振り返ります。

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忘れ得ぬ人びと 人生一期一会(44)

65回目の夏。今も心にマグマを宿す松本和也さん

根本 圭助

昭和10年2月、東京・南千住に生まれる。第二瑞光国民学校4年生の時罹災。千葉県柏町に移る。小松崎茂に師事。主な仕事は出版物、及び特にTVキャラクターのマーチャンダイジングのイラストで幅広く活躍する。現在松戸市在住。小松崎茂作品を中心に昭和の雑誌文化を支えた挿し絵画家たちの絵を展示する「昭和ロマン館」館長。

左から山川静夫さん、松本さん、林家木久蔵(扇)さんの写真▲左から山川静夫さん、松本さん、林家木久蔵(扇)さん

今年も「あの日」が巡ってくる。そうあの日からもう65年もの歳月が流れている。

暑い日だった。突きぬけるような青空がどこまでも広がっていた。私は国民学校(小学校)5年生だった。

正午、天皇の放送の後、疎開先の農家の家々は妙に静まりかえって、蝉しぐれが耳に痛いほどで、烈日の下、他の物音は一切感じられなかった。後の記録によれば、この日東北の一部と北海道は曇り空だったが、その他の日本全土は晴れ渡ったという。

敗戦の日の青空の思い出は多くの人が書き残している。「あの年の夏は、いやに空が澄んで青かった。変に広々と何処までも続く青空であった。凛とした青空であった。きっとあの夏は、昭和の中でいちばん空の青かった夏に違いない」。私とはほぼ同年の作家・演出家、故久世光彦氏の一文である。

私は玉音放送はたしかに聞いているのだが子供の私には理解出来なかった。しかし程なく日本は戦争に敗けたんだという噂が風のように伝わって来た。同時に「進駐軍が来たら、男はみんな…女はみんな…」という話も囁かれ、近所の農家のおばさんが、はだけた胸元をかき合わせ不安な顔をしていたのが思い出される。そして、この日を境に私達は今まで味わったことのない混乱と激動の季節を迎えた。まさに餓鬼道の世界へ堕ちて行ったのである。

おぞましい人間の醜さが、いたるところに露呈された。ありとあらゆる場でそれは嫌というほど見せつけられた。戦争の傷あとを深く心の底に抱き続けている人は無数に存在するが、こうした敗戦の影をいまだに引きずっている人もまた沢山存在している。

戦後の呻きを句に託して

南千住のガスタンクを前に若き日の松本さんの写真 ▲南千住のガスタンクを前に若き日の松本さん

あの頃の沸々と胸に滾(たぎ)らせたマグマを今も持ち続けている人に松本和也さんがいる。

松本さんは昭和3年橋場の隣り、浅草山谷で生まれた。山谷がまだ、現在のような悪評に包まれていなかった時代である。松本さんは、街の変貌を嘆いて、こんな文も書いている。

「街に詩がなくなった。車窓から見て、屋根に詩がなくなった。詩がある街には詩がある人が住んでいたからだ。唯一は誠実さである。戦雲漂う中にも、昭和という時代はそうだったと思う。東京もその昭和の日和を十分に受けた街だった。穏やかで和やかで、その日和は路地の奥にも日足を伸ばした…」。

松本さんは、上野不忍池畔にある下町風俗資料館を立ちあげた人で、初代館長をつとめた人である。東京下町の生き字引であり、口語俳句の作者であり、研究家としても知られている。著作も多く戦後の呻(うめ)きを多くの句に託している。

「ひとさしゆびで冬の入日を消してみる」「おれは浮浪児だぜといいきった目のかがやき」「横顔がなかったらこんなにさびしくもなかったろう」「ああ晩夏乳房くろぐろとして女」「米軍機ばかりが飛ぶ東京の空の黄色い夕日」「夏雲の下のぼくの偏見」「過去を口にしてもしかたない日の靴みがき並んでいる」「戦犯処刑の電光ニュースパンパンは昨夜と同じ声出して」「パンパンがたばこの煙り吹きかけるふとあざやかな色彩」「春を売る老女銀座の秋にかがんでいる」「貴婦人が乳房くっつけてきて夜寝る」「雑魚寝の子が親たちの夜を見ている末っ子の植えた朝顔今朝は一つ」「女のあざの毛美しく模様して池坊をやる」…これらの句と出会ったとき、私はハンマーでなぐられたような衝撃をうけた。松本さんの絶妙のエロティシズムと一流の遊び心。最も多感な季節に、敗戦という現実と遭遇し、犯罪的な生き方をしなくては生きられなかった時代を生きた松本さんの胸底には今もどろどろとした澱(おり)がたまっている。

母堂は双葉山の初恋の人

松本さんが手がけた企画展のパンフレット(表紙のイラストは筆者)の写真 ▲松本さんが手がけた企画展のパンフレット(表紙のイラストは筆者)

松本和也さんと初めて出会ったのは、前述の下町風俗資料館の館長室だった。

「根本さんは何年生まれですか?」という問いに、「昭和10年の早生まれです」と答えると、「なあんだ疎開っ子(世代)か…」と一瞬蔑むような視線が私の顔を通りすぎた。

しかし、話しているうちに東京っ子特有のシャイで、ナイーブで、どこかわざと傲慢さを気取って、自らアウトローであることを演じる松本さんの言葉の裏には絶望感や深い哀しみ、そしてその底にある限りないやさしさが感じられ、私はいっぺんに魅了されてしまった。以来、「東京の戦後展」をはじめ、「昭和青春展」「東京の子供百年展」「六区芸能展」「浅草の灯展」…等々ポスターを描かせていただいたり、楽しく協力の日々を送った。

松本さんは自らの自慢めいた話は一切しない人だったが、母堂の君さんの話は何回か聞かされた。山谷小町と呼ばれ、昭和の大横綱双葉山の初恋の人として当時新聞にも取りあげられたという。もう20年以上前になるが御自宅へお伺いした折、私もその君さんに直接お会いしている。白髪を綺麗にまとめた美しいおばあちゃんだった。無礼を承知で「今までの人生でどんな時代が楽しかったですか?」とお聞きすると、「そう震災(関東大震災)前ネ」という答えが戻って来た。

双葉山のみならず、洋画家の藤田嗣治先生も追っかけの一人だったとか、今ならマスコミで大評判になったと思う。

君さんは明治40年の生まれ。平成12年93歳で彼岸に渡ったという。

松本さんの父君は特務曹長(准尉)で、戦時中は軍事教練の教官として、隅田川に架かる白鬚橋々畔の日本電気兵器―通称「日電」(土地の人は軍と合併する前の名前から「小穴」と呼んでいた)へ通っていた。その「日電」へ私の師小松崎茂が徴用工として配属されている。松本さんとも不思議な縁でつながっていたことが後になって判った。終戦直後、松本さんは父君とともに当時日暮里のアパートで暮らしていた小松崎茂を訪ねて弟子入りを希望したそうだが、出版界そのものが蘇生する以前のことで、松本さんは別の道へ進んだ。もしかしたら、松本さんと私は小松崎茂門下で兄弟々子になっていたかも知れないと思うと、不思議な思いに捉われる。

田村泰次郎作「肉体の門」が昭和22年8月、劇団空気座によって帝都座で初演されて評判となったが、その舞台に熱い思い出がある松本さんは、館の展示場に当時の舞台(セットのみ)を復元して悦に入っていたこともあった。ある日私が所用で出向いた折、「今日は男性にとって、一度は憧れたところへ案内する」というのでついて行くと、展示場の一角に設置された風呂屋の番台だった。台東区蔵前にあった「金魚湯」のもので、銭湯が廃業。解体した際に館へ番台だけ移築されたものだった。無理に上げられ、番台に座ったが、埃っぽい展示場が見えるだけで面白くも何ともなかったが…。

松本さんには「法師」という短編がある。松本さんの好色性が遺憾なく発揮された傑作だが、ここで披露出来ないのが残念でたまらない。「ピアス光らせ戦争は何でもないといいきかせる国」「君は三十の匂いして表札に女ひとりと書く」「戦死した若者らが春の海を染めてくる漁師はそれを大漁という」。

松本さんの句や来信からはここでは公表をはばかるものが沢山ある。しかし、すべて戦争への憤りと、庶民の苦悩を斜に構えながらも温かい目で見ている句ばかりである。

先月4日池上彰さんの番組で、20代の若者100人がスタジオ生出演をしたが、第二次大戦で日本が戦ったのは(アメリカ・イギリス)か(ドイツ・イタリー)のどちらかという池上さんの問いに、まさかと思ったが6人の人が(ドイツ・イタリー)と答えたのには仰天した。

「折ある毎に書き残しておくべきだ」と松本さんが素直に励ましてくれた。畏敬の念を深く抱く先輩には書きたいことが、まだごっそりあるが、今月はこの辺で擱筆する。

それにしても「いつまでもあの日を忘れられない」―私達はつくづく因果な世代である。

 

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