「私の昭和史(第2部)―忘れ得ぬ人びと人生一期一会―」は昭和ロマン館館長・根本圭助さんの交友録を中心に、昭和という時代を振り返ります。

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忘れ得ぬ人びと 人生一期一会(46)

魂のインド舞踊家・シャクティさん

根本 圭助

昭和10年2月、東京・南千住に生まれる。第二瑞光国民学校4年生の時罹災。千葉県柏町に移る。小松崎茂に師事。主な仕事は出版物、及び特にTVキャラクターのマーチャンダイジングのイラストで幅広く活躍する。現在松戸市在住。小松崎茂作品を中心に昭和の雑誌文化を支えた挿し絵画家たちの絵を展示する「昭和ロマン館」館長。

「サロメ」のパンフレットの写真▲「サロメ」のパンフレットより(Photo by Youichi Kukuminato)

もう10年以上も前の話になるが、雑誌『潮』の巻頭グラビアに私が取り上げられたことがあった。カメラマンを伴い、インタビュアーとして私の所へ訪ねてきたのが酒井玲子さんだった。

取材の後、話がはずんで、カメラマンを交えて3人でお茶を飲んだが、その折、酒井さんが「シャクティに心を奪われ、今や私の総てになっている」と熱っぽく話してくれた。

正直のところ、私自身その時まで「シャクティ」という人の存在をまったく知らなかった。

私の学友で京大でインド哲学を専攻したYという友人がいたので、最初はその方面の学者さんか思想家かと思った。

よく伺ってみると、「シャクティ」さんは、インド舞踊家として世界的に知られている人とわかり、さらにいつもロマン館に来館してくれる知人の女性が、シャクティさんの大ファンと聞かされ、私は自身の不明を恥じた。

漆黒(しっこく)の闇の中、一条のライトの中で美しく鍛え抜かれたシャクティさんの魅惑的な肢体が踊っている。

「踊りは言葉と同じ。肉体を通して会話するんです」。シャクティさんの言葉通り、時として全裸かと見まがう衣装で、ぐいぐいと見る者の本能を呼び覚まし、私もそのパワーに満ちあふれたシャクティさんの踊りに心を奪われて、客席で全く自分を失っていた。

シャクティさんは、昭和32年京都で生まれた。父は、非暴力のガンジー主義者のインド人で、京都外大の教授だった。

シャクティとはサンスクリット語で生命力、性力、創造力を意味するという。母は日本人。

3歳からその母(ヴァンサンタマラ)より印度古典舞踊バラタナタヤムの手ほどきを受け、15歳でアランゲトラム(デビュー公演)、インド舞踊家としての第一歩を踏み出している。ついで印度では、グル・イラッパ(バラタナタヤム)、グル・マハパトラ(オリッシイ)、グル・アチャリヤ(クチプデイ)に師事し、インド古典舞踊を研鑚した。

ニューヨーク・コロンビア大学でインド哲学を専攻。かたわら、マーサ・グラハム、アルビン・エイリー、ルイジに西洋舞踊を学んだ。

昭和54年、同大学院を修了後は日本をベースに舞踊団を結成。ヴァンサンタマラと共に本格的な公演活動を開始している。

 

舞台のシャクティさんの写真 ▲舞台のシャクティさん

日本では毎年、京都、東京の定期公演で古典と共に斬新な創作舞踊を発表し注目を浴びている。また海外公演は、昭和59年のニューヨーク・リンカーンセンターでの「ヒミコ」公演を皮切りに、アメリカ、フランス、インド、中国と公演している。

平成6年は「破壊と創造のエロス」をテーマにワールドツアーを開始。海外の公演活動が活発化し大きな成果を収めた。

国内では同じく平成6年、京都平安建都1200年にちなみ、創作「羅生門」を東福寺(京都)、湯島聖堂(東京)で野外公演を行い、「羅生門」は海外でも公演し、高い評価を得た。

ことにエジンバラでは、1975もの参加団体から選ばれ、「エジンバラフェスティバル・スピリッツ・オブ・ザ・フリンジ賞」を受賞した。

平成12年には、英国政府より「JAPAN賞」を受賞。平成16年にはニューズウィーク日本版「世界が尊敬する日本人100人」にも選ばれている。

高まる世界的な評価

スタジオで稽古する酒井玲子さんの写真 ▲スタジオで稽古する酒井玲子さん

前出の酒井玲子さんは昭和50年代の始めにインタビュアーとしてシャクティさんと巡り会っていて、その時の思い出を後に記している。

「一刻も早く彼女のもとを去り、ただ一人になって息をしたかった。不快だった訳ではない。この出会いから生じた驚きの正体が何なのか、静かに見つめたかった。

彼女の名はシャクティ。インドと日本の血を引く気鋭の舞踊家。サンスクリット語で『生命力・性力』を意味する名前が示すように、よく鍛えられていながら、硬さを感じさせない躍動感のある肉体、たっぷりとした形の良い腰と胸。相手をまっすぐ見つめる双眸。おおらかな笑顔は、同性から見ても十分に蠱惑的であった。私は彼女の言葉の10分の1も理解できなかった…(以下略)」。

以来、酒井さんは、30年近くヴァンサンタマラ舞踊団の一員となり、現在は舞踊団のまとめ役として、また講師としても活躍している。

シャクティさんと酒井さんとの出会いにも、運命的なものを感じさせられるが、酒井さんを通してのシャクティさんの舞台との出会いも私にとって、かなり衝撃的でもあり、まさに一期一会という言葉通りと心に刻みこんだ。「サロメ」(世田谷パブリックシアター)、「砂の女」(青山劇場小ホール)…等々、私も完全にシャクティさんの舞台にノックダウンされた。一部の国では、「シャクティの踊りは過激すぎる…」といった話もあると伝え聞いたが、それ以上にシャクティさんの舞踊や思想は、「意識を超えた魂の踊り」として多くの国の多くの人々に共感され、評価されている。「エロティックと聖なるものが激しくぶつかりあって、融け合う時エロス(生)と死のエネルギーは解放され、シャクティは狼と踊る女になる」こんなキャッチフレーズも目にした。「生と死の二つの反対の力、創造と破壊、カオス(混乱)と静謐、プラスとマイナスは永遠に続くゲーム」と語り、さらに自己愛から自己破壊へ、処女から成熟した女へ、神秘的なエキゾティズムから永遠なる官能性、エロティシズムへの変貌を明らかにするというシャクティさんの思いは激しい。

 

筆者(左)とシャクティさんの写真 ▲筆者(左)とシャクティさん

「すべてを表現する私の踊りが、社会やモラル、タブーといったものの対極にあるから。どんな社会でも日常生活の中では、多かれ少なかれ本能を抑えていますから、その国の社会状況や国民性をダイレクトに刺激するんですね」「生きるということは、責任もすべて自分でとるということ。自分をこの上なく大切にするからこそ、自分だけでなく他者も大切にできるんだと思います」。含蓄ある沢山のシャクティ語録には多くの真実がこめられているように思われる。

舞台上のシャクティさんは、時として悪鬼のような激しい表情で、感情をたたきつけてくる。そして次の瞬間、表情が一変し、何ともやさしくチャーミングなあどけないものに移行する。私はその一瞬のシャクティさんの表情にたまらない魅力を感じている。

酒井さんから「永六輔のメディア交遊録」という新聞記事のコピーが送られてきた。

「…京都育ちだから、シャクティさんに案内してもらって、『遠くへ行きたい』(NTV)のロケをしたこともある…」。その内容にも素顔のシャクティさんが偲ばれて楽しい一文だった。シャクティさんは来月半ばには帰国するそうで、「松戸という所は行ったことがないのでお伺いしたい」と言ってくれていて、酒井さんと一緒に食事をすることになっている。秋の到来と合わせて、お二人との再会を楽しみにしているところである。

 

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