「私の昭和史(第3部)―昭和から平成へ― 夢見る頃を過ぎても」は昭和ロマン館館長・根本圭助さんの交友録を中心に、昭和から平成という時代を振り返ります。

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夢見る頃を過ぎても(7)

堂昌一、小妻要、梶田達二 今年の墓碑銘

根本 圭助

昭和10年2月、東京・南千住に生まれる。第二瑞光国民学校4年生の時罹災。千葉県柏町に移る。小松崎茂に師事。主な仕事は出版物、及び特にTVキャラクターのマーチャンダイジングのイラストで幅広く活躍する。現在松戸市在住。小松崎茂作品を中心に昭和の雑誌文化を支えた挿し絵画家たちの絵を展示する「昭和ロマン館」館長。

小妻要画「育む」の絵▲小妻要画「育む」

今年も残り僅かになった。仕事場に一年掛けてあった大版の日めくりカレンダーも残り少なくなった。毟(むし)り取られた後の残り滓(かす)から私の一年間の生活が垣間見られるようで忸怩(じくじ)たる思いにかられる。例年通り、喪中の葉書が配達されてくるが、今年はいつもの年より数が多いようで、今日現在で21通もの数である。そして今大きなショックとなっているのは、頂いた葉書の中で4通分の差出人にまったく心当たりが無いということで、これは完全に私自身の頭がどうかなってしまったようで不安でもあり、葉書を取り出しては頭を抱えている。

宛名は正真正銘私宛になっているが、差出人のお名前とか住所にもまったく心当たりがないということで大いに悩んでいる。

私は今年9月から10月にかけて1か月余り、突発的な急性大動脈解理で入院生活を余儀なくされたが、ついに本式のボケまで入って来たかとこの4枚の葉書に悩んでいる。まさか問い合わせも出来ず、本当に弱っている。

ところで私の入院中、外では訃報が相次いだ。挿絵の世界では大先輩の堂昌一先生。森村誠一「忠臣蔵」、笹沢左保「木枯紋次郎」…等々主に時代劇の挿絵で大活躍をされたお方で、絵を御存知の方も多いと思う。私も所属する日本出版美術家連盟の前会長だったお人で、たいへん親しくさせていただき、又お世話にもなった。

そしてもう一人、小妻要さん。本来は日本画家でもあったが刺青(いれずみ)の絵で知られ、小妻さんも同じ会で一緒だった。

私は刺青は生理的に受けつけないが、小妻さんの作品は技術的にもすばらしく、静かなお人柄で個人的には大変親しくさせていただいた。小妻さんは72歳だったという。

堂先生は85歳で、かなり前から病状も悪化していた。奥様のお話からお見舞いも断念していたが、小妻さんの死は全く思いがけないことで、病室で訃報に接し本当に驚いた。

 

梶田達二画「陽光の港みらい」の絵▲梶田達二画「陽光の港みらい」 左から梶田夫妻、筆者、メソポ田宮文明氏の写真▲左から梶田夫妻、筆者、メソポ田宮文明氏

更にもうお一人。私にとっては20代の頃からの画友梶田達二さん。病状は聞いていて、覚悟はしていたものの若い頃からの大事な友を又一人失ってしまった。

親しかった友を失くして特に悲しいのは、その友が残された者の数々の思い出までそっくり持ち去ってしまうから―と誰かが書いていたが、ぽっかり空いてしまった心の穴は容易に塞げるものではない。

告別式が済んだばかりというのに気丈な奥様が逆に入院中の私の見舞いに来てくれて私は慌てて言葉を失ってしまった。小松崎茂一門には書生として住み込んだ弟子と通いの弟子とでざっと数えて25人もいるが、すでに9人が彼岸に渡ってしまっている。

梶田さんは昭和11年名古屋市の生まれで、私より一つ若かった。小松崎茂に憧れ挿絵の道に進んだというが、小松崎茂の弟子にはならなかった。しかし、弟子の誰よりも画風は小松崎茂に似ていて、雑誌の口絵からプラモデルの箱絵、又商品のイラスト等夥(おびただ)しい量の仕事を残している。晩年は、船舶や航空機、機関車等の油絵で人気を博し、特に海洋画家としての地位も定着し、最後までエネルギッシュに筆を走らせ続けた。

作品は華やかだったが、人柄は地味で誠実そのものの人だった。テレビキャラクターの全盛時代には、「ウルトラマン」のシリーズを始め、多くのキャラクターグッズのイラストも描きまくり、そのタフな仕事振りには同業の私はいつも驚かされていた。

ポツリポツリと親しい人が旅立ってゆく。

立川談志、二葉あき子

そういえば立川談志さんの死も大ショックだった。年齢も近かったし、第一にファンだったのでこれもショックだった。

お会いしたのは3度きりだったが、その度慌ただしい出会いだった。最後にお会いしたのは浅草木馬亭での浪曲の集まりの時で、私は故人となった浪曲研究家の芝清之さんに招かれて出向いていた。後から談志さんが来ると聞いて待っていたが一時間近くも遅れてやって来て幕の間から顔を出してアッカンベエをしたりの悪ふざけ。この日は通路までも人で埋まる大盛況で、やっと楽屋で会うことが出来た。

主に時代ものの挿絵で活躍した堂昌一の作品▲主に時代ものの挿絵で活躍した堂昌一の作品

少し前談志さんに短い原稿を書いてもらっていたので、慌ただしい中でお礼を言うと、「あー待たせてゴメン、ゴメン。今日時間ある? ちょっと話したいことがあるんだ!」と言うので私もお聞きしたいこと、確かめたいことが二、三あったので、楽屋で待っていたが知らぬうちに「待っててよ」と引きとめておいて何と先に帰ってしまっていた。文字通り「すっぽかされ」たのだが、不思議と腹は立たなかった。

会っていきなり、「おい飯塚羚児はまだ生きているんだぞ」と戦前の少年雑誌から活躍していた大先輩の話を切り出して来たが、あっけない幕切れで、それが談志さんとの最後になってしまった。怪物画人とも称された飯塚先生も平成16年99歳の生涯を終えている。談志さんは、それを知らなかった。一度ゆっくり談志さんの「懐メロ談義」を拝聴したかったのだが御縁がなかった。「ダンちゃん、ダンちゃん」と談志さんを慕っていた大阪難波のなつメロの店「シスター」の松井洋々(ひろし)さん―岡晴夫ファンクラブ関西代表―もすでに鬼籍に入っているし、私は行く機会を逸していたが談志さんの行きつけだったという中野坂上の懐メロスナック「艶歌」も御主人が他界して店を閉じている。

歌手の二葉あき子さんも郷里の広島でお亡くなりになったという報が届いた。胡美芳さんの会で食事をご一緒したのが最後となった。その胡美芳さんも一足先に鬼籍に入っている。

師走は忙しい中でふと過去に思いを馳せ、感傷的になることが多い月のようだ。震災で書庫として借りていたアパートが駄目になり、引っ越しなどで、かなりくたびれた。

書庫の奥の段ボールの中から亡妻の日記帳が3冊出て来た。結婚した日から長女の誕生の前日まで毎日のことが克明に記され、二人で出かけた芝居や映画の入場券の半券が丁寧に貼付されていた。妻に先立たれることに、中国の故事から「炊臼(すいきゅう)の夢」という言葉があると聞くが、「あー私にもこんな時代があったんだ…」と鼻の奥がキュンと熱くなった。

大震災の災禍をはじめ、様々な思いを人々に残し今年も暮れて行く―。新年が皆様にとって必ず良い年でありますように、心から祈念申しあげて…。

 

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