夢見る頃を過ぎても(20)
50歳にしてもらった忘れられぬお年玉
根本 圭助
昭和10年2月、東京・南千住に生まれる。第二瑞光国民学校4年生の時罹災。千葉県柏町に移る。小松崎茂に師事。主な仕事は出版物、及び特にTVキャラクターのマーチャンダイジングのイラストで幅広く活躍する。現在松戸市在住。小松崎茂作品を中心に昭和の雑誌文化を支えた挿し絵画家たちの絵を展示する「昭和ロマン館」館長。
「年の始めの 例(ためし)とて、終(おわり)なき世の めでたさを、松竹(まつたけ)立てて、門(かど)ごとに 祝う今日こそ 楽しけれ。」
戦前小学校生活を経験した人達にとっては懐しい歌のはずである。私は昭和16年に入学した「国民学校一期生」だが、私達の時代も、それ以前と同様に一月一日は新年の式典を行うための登校日だった。
講堂に整列してこの歌を斉唱し、落雁のお菓子をもらって帰宅したものである。
作詞の千家尊福(せんげたかとみ)は男爵。出雲大社の宮司で、のち大社教管長。東京府知事をはじめとして西園寺内閣の司法大臣もつとめた。
作曲は、学習院や東京音楽学校でも教鞭をとり、宮内省雅楽長もつとめた上真行(うえさねみち)である。
式典からの帰途私達悪童連は…「年の始めの 例とて、尾張名古屋の大地震、松竹ひっくり返して大騒ぎ 芋を食うこそ…」と大声で替え歌をうたいながら門松の竹の葉ずれを聞きながら、元日の町を帰った。
昭和17年の正月―前の年の12月8日に日本は太平洋戦争に突入。非常時色が強くなったとはいえ緒戦の相次ぐ戦勝ムードに人々は酔い痴れていた。ラジオからは連日威勢の良い軍艦マーチが流れ、祖母と初詣した浅草の観音様も、武運長久や戦勝祈願で、いつもの正月より活気に溢れていたのをうっすらと思い出している。
大人達はともかく、少国民と呼ばれた私達は、お正月の楽しさの中に何か身震いするような勇ましい気持ちも加わって心を躍らせていたように思われる。それでも浅草や吉原辺りの路地には日本髪の綺麗なお姉さんが羽子をつく姿がまだ多く見られた。
戦いに敗れ、飢えに追われた筆舌につくせぬ苦しい戦後の正月を何回かくぐりぬけて来た。あれ以来、山あり谷ありの正月を何十回か送って来たが、ふと気付くと、正月の風情もすっかり様変りしてしまっている。第一に「数え年」の昔は、除夜の鐘と同時に日本中の人々が、みんな一緒に年をとった。
子供の頃は又ひとつ年をとって、お兄さん、お姉さんになれるという―その一瞬を迎えるのは、まことに神秘的かつ厳粛な体験として、胸をドキドキさせて、その刻(とき)にのぞんだものである。
年齢を満で数えるようになり、元旦を迎えても「皆一斉に年をとる」ということがなくなったことが、まずお正月の感動を弱くしたようにも思われる。
その上、おせち料理も出来上がったものが簡単に手に入るし、通販でも入手出来る。
コンビニやデパートも正月早々から開店するし、便利さと安易さが、かえって正月の厳粛さを薄くしてしまったようにも思われる。
「お餅はきらい!」という言葉もよく耳にする。私などは、戦後の飢えの時代を経験しているので、どうにか正月用の餅を調達出来た年がどんなに嬉しかったことか、あの頃の正月が、むしろ懐しく思い出される。
善人の塊みたいな人
元日が、あっけなく暮れてゆく…。
子供の頃は、それが無性にかなしかった。二日、三日と過ぎて、四日はもう正月の気配も消えかかり、五日、六日で、いつもの日に戻ってしまう。子供心に感じたあの切なさは、もしかしたら人生で味わうはじめての無常感との出会いだったのかもしれない。
「正月が楽しみなのは、お年玉を貰える年までだよ…」。友人の一人が嘆いて言った。
彼は孫が多いので、お正月は戦戦恐恐、お年玉のやりくりに苦労しているらしい。かと思うと、孫に恵まれず、「お年玉があげられたらなあー」と嘆いている友人も居る。まことに浮世様々である。お年玉では忘れられない思い出がある。私の祖父は機械塗専門の塗装業者だった。その祖父の弟子で勝治兄という人が居た。私が生れる前から住込みで家に居たが、生真面目で朴訥で、善人の塊(かたまり)みたいな人だった。私のことも本当に大事にして可愛がってくれた。
実直さを買われて、近所の肉屋の娘さんと結婚することになった。
当時の事とて、わが家で式を挙げることになった。新郎新婦の三々九度の盃に酒を注ぐ役は、雄蝶雌蝶(おちょうめちょう)と呼ばれて幼い男児と女児が選ばれる。その雄蝶役に私が選ばれた。私はたしか、国民学校(小学校) 入学前のことで、雌蝶役は裏の長屋に住む松江ちゃんという私と同年の子が選ばれた。盛装した色白の松江ちゃんは本当に可愛らしく、集まった近所の悪童連に大声で野次られたが、内心私は嬉しくてたまらなかった。あれが幼い日の私の初恋だったのかもしれない。
さて本題はこれからである。私が50歳を過ぎた頃その勝治兄の奥さんであるシイちゃんが病いで床についた。私は勝治兄の住む京成立石まで見舞いに出かけた。勝治兄は大層な喜びようで、帰りは駅のホームまで送って来てくれた。別れ際、「圭ちゃん、ほんの僅かだけど…」と言って私に何かをにぎらせた。お年玉袋だった。ホームで両手を振って踊るように喜んでいる老いて小さな勝治兄を見たら、私は急に熱い想いがあふれて頬をぬらしていた。お年玉袋をしっかり握りしめたまま私も夢中で電車の窓越しに手を振り続けた。結局これが勝治兄との最後の別れになってしまった。
その直後、私の身に大きな不幸の波が襲った。妻が癌に侵され、あっという間に私は片羽(かたば)鳥になってしまった。他にも私の人生で取り返しのつかないアクシデントが続き、両親と息子2人を抱え、長く主夫生活を余儀なくされた。そのごたごたした中で勝治兄も他界した。
ここに掲げた写真は、昭和10年1月5日撮影とあるから、私の生まれるちょうど1か月前のものである。ここには写っていないが、この他に仙造、敏男という年嵩(としかさ)の弟子が2人居て、これは近所に住んでいた。
三蔵叔父というのは母の実弟で、後に縁があって、北小金駅前の古くからの和菓子店(今はビルになっている)大正堂の長女と結婚し、北小金の住人となった。地元なので、大正堂を御存知の方は多いと思う。
「この年になっても、こうして食べていけるのも皆親方のお蔭っす」。誠実で生一本勝治兄の口癖がなつかしく思い出される。まさに「浮生(ふせい)夢の如し」の言葉通りである。
私は、この暮の13日に柏市中央公民館で「小松崎茂と柏のむかし」といった題で講演をして来た。50年余りを過した柏市だったが、「60歳以上」ときめられて集まった多くの人達に、知った顔が一人も無かった事にショックを受けた。今年は2月に徳島、3月には松江市、5月に熊本市でよばれている。有名人でもないのに不思議でたまらない。夏には大きな「小松崎茂展」が予定されていて、どうやら老骨にとってはハードな年になりそうである。本紙が発行される頃には年賀状も流石に途絶え、成人の日も過ぎ実家のお嫁さんが来客で疲れた腰をのばし、平常の「くらし」に戻っているはずで、私も自由気儘でちょっぴり淋しい一人暮らしの毎日が待っている。
今年がどうぞよい年でありますように。
最後に冒頭の唱歌「一月一日」の二番を記して今月は擱筆(かくひつ)させていただくことにする。
「初日のひかり さし出でて、四方(よも)に輝く 今朝の空、君がみかげに 比(たぐ)えつつ 仰ぎ見るこそ 尊(とう)とけれ」
(蛇足として)第二節の第一行は、はじめは、「初日のひかり 明(あき)らけく、治(おさま)る御代(みよ)の今朝(けさ)のそら」だったのを大正2年に前記のように改められたという。「明らけく治まる御代」では「明治の御代」を表わしていたからという。