「私の昭和史(第3部)―昭和から平成へ― 夢見る頃を過ぎても」は昭和ロマン館館長・根本圭助さんの交友録を中心に、昭和から平成という時代を振り返ります。

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夢見る頃を過ぎても(22)

雛まつりとKさんの思い出

根本 圭助

昭和10年2月、東京・南千住に生まれる。第二瑞光国民学校4年生の時罹災。千葉県柏町に移る。小松崎茂に師事。主な仕事は出版物、及び特にTVキャラクターのマーチャンダイジングのイラストで幅広く活躍する。現在松戸市在住。小松崎茂作品を中心に昭和の雑誌文化を支えた挿し絵画家たちの絵を展示する「昭和ロマン館」館長。

雛まつり 筆者画▲雛まつり 筆者

3月ともなると、月日の流れも徐々に加速度を増して行くように感じられる。猫の額より狭いわが家の庭に植えてある一本の梅の古木に今年はぎっしり花が咲いて嬉しく眺めていたら、先日の強風でかなりの花が吹き飛ばされてしまった。

3月といえば毎年もう70年近い昔になった東京大空襲の追悼の記事に接するが、今年はあの東日本大震災から2年目とあって、その心の傷も新しく深くそしてあまりにも大きくその記事で新聞各紙は一杯だった。

これからの年月、3月といえば10日の東京大空襲と11日の東日本大震災がずっとずっと悲しい歴史の一頁として語り続けられることになるのだと思う。

そういえば3月は雛の月だが、雛まつりを観光の目玉にしているいくつかの街のニュースは見たように思えるが、雑事の中で、まったく気付かず過してしまった。

私は長女が生まれてすぐ、まさに親馬鹿チャンリン、奮発して大きな段飾りのお雛さまを買った。当時私の家は74坪と広かったので一部屋はまるまるお雛さまのものとなった。

知人のKさんは団地住まいだったので内裏雛(だいりびな)一対を購入したという。かなり豪華で高価なものだったらしい。Kさん夫妻と私は同年で、娘同士も同年だったので、時折遊びに寄ってくれた。

3歳位の頃だったか私の家のお雛さまを見て帰った夜、Kさんの娘C子ちゃんは「ともちゃん(私の娘の名)と同じ本物のお雛さまを買って!」とごねたそうで、「段飾り」の雛人形にこだわって、親を困らせたという。

わが家では雛の時期が近づくと、母も亡妻も娘も「早く出して!飾って!」とせがむのだが、自分たちは面倒くさがって一切手を触れないので、仕方なく私が箱から取り出して一体一体具足や調度品を調べ、オットその前にスチールの段を組立て、緋毛氈(ひもうせん)でくるみ込むのがまた大変でかなりの時間を要した。さて雛まつりが終わると、今度は長く雛を出しておくと娘の婚期が遅れる―という昔からの言葉を引いて「早く仕舞って!」とまた催促。一体一体ていねいに人形のお顔を和紙で覆い、箱に納めるのだがこれも一仕事。お茶を持って来て、ブツブツ文句を言いながら作業している私を嬉しそうに、いたずらっぽい眼で見ていた妻のことをこの頃ふっと思い出すことがある。

 

徳島での講演会のパンフレットの写真▲徳島での講演会のパンフレット

ところでKさんの娘C子ちゃんの方は小学校低学年の頃ネフローゼを患い、休学して東大病院へ2年程入院した後、何としたことか余病を併発して13歳の春他界してしまった。「段飾りのお雛さまを買ってあげれば良かった…」一人娘を失ったKさん夫妻の嘆きは言葉では言い表せぬ程だった。

C子ちゃんの死はちょうど3月。雛まつりの季節の頃だった。それからのKさんは熱心にボランティア活動に打ち込み、気丈な奥さんはパートへ出て、二人とも悲しみを振りはらうように頑張った。私が妻を失い、主夫業をしていた頃、スーパーで買物をするKさん夫妻と何回か会ったが話題がお互いの傷口に触れるようで、無理に明るく「やあしばらく!」と挨拶をしたが立ち話は長く続かなかった。

昭和ロマン館が開館した頃Kさんが突然訪ねて来て、「もう私もこの通りすっかり年をとってしまったので妻の実家のある三鷹の奥へ引っ越すことにしました。なつかしくて一度会いたくてね…」頭こそ真白になっていたがKさんは思ったより元気で明るかった。

それから2年程たって、Kさんから「妻が痴呆症になり、文字通り老老介護です。人生平らな道ばかりではないということです」という便りがあった。私からの返信は「あて所に見当らず」の付箋付きで戻され、その後ぷっつり消息が絶えた。

毎年雛まつりの頃になると、「家は一人娘だから嫁には出さない。雛人形は出しっ放しにしておく」とまで娘を可愛がっていたKさん夫妻が思い出され、私は私でとうとうお雛さまの飾りつけには一切手をかさない母と妻と娘のために(雛まつりは娘も友人を招いて楽しく行っていたが)雛人形の出し入れは私一人のノルマになってしまった。「家の女族共は―」と苦笑しつつも早目、早目に人形を仕舞い続けた故か、娘は21歳でさっさと愛する人を見つけてその胸にとびこんでいった。

「面倒くさい」と言って手を出さなかった亡妻の屈託ない笑顔がふとした折になつかしく思い出される。

 

徳島から帰れば、春

もうすぐ春 筆者画▲もうすぐ春 筆者画

ところで私は、先月(2月)23、24、25 日の3日間講演会のため四国の徳島へ出かけた。大きい手術をした後の初めての一人旅だった。

着いた日の夜は20人近い人が集まって歓迎会をしてくれて、駅近くの居酒屋で大いに盛りあがった。それにしても徳島は寒かった。

会場は北島町立創世ホールというところで、事務局長小西昌幸氏の並々ならぬ配慮のお陰で、お客様も予定通りの人数が集まり無事に終えることが出来た。徳島出身で松戸市在住の朗読家でフリーアナウンサーの森優子さんの司会。映像作家の鈴木之彦さんの労作による小松崎作品のスライド。「怪獣大戦争」のテーマ曲にのって次々と変るダイナミックな画面に、私の拙いオシャベリは大いに救われた。講演会のあと、(柄にもなく)サイン会があり、これは一寸疲れてホテルへ真っ直ぐ帰った。徳島駅前のホテル「サンルート徳島」は各部屋たっぷり広いゆったりしたビジネスホテルだった。受験期でどこのホテルも満員だという。近頃は受験にも親が一緒に来る例が多いそうでここでも時代を感じた。

「サンルート徳島」では天然温泉が出ていて、屋上に行けば温泉に入れるようだったが、私は疲れた―というより病後の身体が疲れるのがこわいようで2晩とも自室で入浴を済ませてしまった。

色々心を配ってくれた朗読家の森さんと、映像作家の鈴木さんのお二人はさぞ張り合いがなかったろうと申し訳なく思っている。

大きい手術をしたあとの初めての旅―と書いたが、今は内臓はどこも異常ないのに入院生活の後遺症で足腰の筋力がすっかり衰えて、足許がおぼつかなくなってしまっている。文字通り年寄り歩きになっていて何とも情けない。

そんな訳で帰りは真っすぐ帰宅したが、午後の2時ちょうどに徳島空港を飛び立って、北小金駅の改札へ着いたのが午後5 時ジャスト。あまりの速さにびっくりしてしまった。

四国は3回目だったが、真っ直ぐ出かけて講演だけ済ませ、寄り道もしないで帰ったのは初めてだった。

神戸からとか、岡山からとか、北九州からとかわざわざ来てくれたという世に言うオタク族の人。緊張して握手を求めてくれた何人かの人々…決して有名人でもない一老人に有難いことだと感謝している。

暖かかったり寒かったり、凍ったり溶けたり、そんなことをくり返しながら、春はすぐ近くまでやって来ている。北の国では、まだ記録的な豪雪で苦しんでいる報が届いて心を痛めているが、この辺りは随分春めいて来た。「如月(きさらぎ)弥生の程は風はげしく余寒もいまだつきせず…」平家物語の一節だが、まるで恋心を焦らされるように、春は気配のみ感じさせながら、なかなか訪れてくれない。

弥生野やあたたかい風さむい風 波三

昨夜おそく眠りの中で、雨の音を聞いたように思った。雨戸を開けてみると、木々もしっとり濡れていて、遠くの雑木林が朝の光を浴びて、一面に淡い緑や赤や黄色に色づいていた。

「昨夜(ゆうべ)の雨で生まれたか/今朝の光で育ったか/赤や緑やさまざまの/色美しい木の新芽…」

疎覚(うろおぼえ)の古い小学唱歌だったかがふと思い出された。今時分の雨を「木の芽起こし」とか「木の芽萌やし」とかいうそうだが、今朝の景色は正にこの言葉通りで、しばらく雑木林の色に見蕩(と)れた。

夜はまだ冷えるし、吹く風はまだ冷たい日も多いが、沈丁花の甘い香りが流れはじめた。

やがて黄色いレンギョウの花が咲き、コブシの白い花が陽に映えるだろう。急に暖かくなったせいか、今年は桜の開花が早く、この原稿を書いている16日には東京でも開花したという。本紙が出る頃には満開だろうか。

豪雪地帯の皆様の安全を心からお祈り申しあげて―。

 

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