「私の昭和史(第3部)―昭和から平成へ― 夢見る頃を過ぎても」は昭和ロマン館館長・根本圭助さんの交友録を中心に、昭和から平成という時代を振り返ります。

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夢見る頃を過ぎても(25)

銀座数寄屋橋と「君の名は」の思い出

根本 圭助

昭和10年2月、東京・南千住に生まれる。第二瑞光国民学校4年生の時罹災。千葉県柏町に移る。小松崎茂に師事。主な仕事は出版物、及び特にTVキャラクターのマーチャンダイジングのイラストで幅広く活躍する。現在松戸市在住。小松崎茂作品を中心に昭和の雑誌文化を支えた挿し絵画家たちの絵を展示する「昭和ロマン館」館長。

高速道路の工事が始まった頃の数寄屋橋(S32)の写真▲高速道路の工事が始まった頃の数寄屋橋(S32)

本紙4月号に銀座シネパトスの閉館のことを記し、銀座を囲むように流れていた川というか掘割の思い出に触れ、その川に架かっていた橋のことにも一寸触れたが、数人の方から懐しい思い出を引き出してくれて嬉しかったという過分な感謝の御連絡をいただいた。

一番多かったのはやはり数寄屋橋の思い出で、「埋め立てられてしまうと川のあった昔が恋しいが、橋の上から眺めた川面は汚れたドブ水のような状態を呈していて、異臭が漂い、とてもロマンチックな気分とは程遠かった」という思い出もいただいた(まったく同感!)。

それでも日劇があり、朝日新聞社があり、数寄屋橋が架かっていた昭和30年代初めまでの光景を思い出すと懐かしさで胸に熱い思いがこみあげてくる。東京を去るとき、あるいは所用で一時東京を離れるとき、東京駅から西へ向かう列車は、発車して間もなく有楽町を通過する。

そして一瞬ではあるが、その左側にはきまって「日本劇場」つまり「日劇」の姿があった。「さようなら」とか「行ってまいります」とか通過する時、心の中でそっと挨拶を交した人はかなり多かったのではないかと思う。

同様に帰京した時は、下車仕度をしながら、チラリと窓外を流れる「日劇」の姿に「あー帰った」「ただいま」と何やら安堵に似た思いを心の中でつぶやいた人も多かったはずだ。

日劇は東京を代表するランドマークとして線路の近くに建ち、いつも輝いていた。

 

小松崎先生の望郷の思い

数寄屋橋―といえば「君の名は」に思いがつながっていく。ラジオ放送で一世を風靡し、すぐに映画化もされたが、ラジオドラマとしての「君の名は」の思い出を語る人も近頃は少なくなった。

放送劇「君の名は」は、昭和27年4月10日(木・夜8時30分)に「えり子とともに」の後を継いで放送された。「えり子とともに」は内村直也の作で東京山の手のインテリ家庭の父娘の物語だった。ヒロインのえり子は阿里道子が演じ、阿里道子は次の「君の名は」でヒロイン氏家真知子役を引き継いで演じた。

余談だが「えり子とともに」の音楽は芥川也寸志が担当し、のちに中田喜直に代った。

劇中で高英男が歌った「雪の降る町を」(中田喜直作曲)は戦後の荒んだ気持ちを随分と慰めてくれた。この「えり子―」が昭和27年4月3日に終り、次の週4月10日から「君の名は」が始まった。

 

東宝の生徒の絵▲東宝の生徒(小松崎茂・画 S11)

まったく自慢出来る話ではないが、私はこの放送を第1回目から、昭和29年4月8日の最終回まで殆んど毎回聞いている。

私は当時高校3年生だったが、前年3月師の小松崎茂先生が柏へ越して来てから、(まだ正式に弟子入りはしていなかったが)夜は毎夜小松崎家で徹夜暮らしをしていたので、「君の名は」は、毎週小松崎家で聞いていた。

下町育ちの小松崎先生は当時田舎町の柏へ引っ越して来て淋しくてたまらなかった。松林の中の一軒家で、ここには電車や車の音もない。人々のざわめきもない。小松崎先生は異常な程東京を恋しがって、「君の名は」のバックに流れる都会の「効果音」に興奮し、ドラマにのめりこんでいった。

「えり子とともに」は一人の乙女の成長を見守りつつ、戦後派世代に人生の意味を問いかけるという上品なドラマだったが、「君の名は」は一転して終戦直後の数寄屋橋からドラマがはじまる。私の手許に放送第1回目の録音があるので、紙上採録を試みてみる。

(古関裕而とシャンブルノネット。そのハモンドオルガンのテーマ音楽にのって、氏家真知子役の阿里道子の声が流れてくる―)

「君の名は たずねし人あり 我は答えず七年(ななとせ)たちぬ ふるさとの小川のほとりに立ちて その人を思えども 都(みやこ)は遠く 佐渡は真冬なり…」

(音楽高潮し、ここで男のアナウンサーの声)「菊田一夫作連続放送劇『君の名は』」

(ハモンドオルガンにのせて、語り手の加藤幸子の声がつづく)

「真知子が、それまで暮らしていた東京を離れ、生まれてはじめての故郷、佐渡ヶ島へ帰って来たのは、昭和20年。あの恐しい戦争が終った年の秋の終りのことであった」

(佐渡への連絡船の汽笛―、叔父とのつらいやりとりや、オルガンの佐藤おけさにのっての綾(あや)との出会いがあり、舞台は東京へ移る。加藤幸子の声で)

「昭和20年11月24日夜、東京、数寄屋橋橋畔―」(都電の音、舗道の靴音、街のざわめき…。ここで後宮春樹が登場する。街の女とのやりとり。半年前、空襲の中での約束、お互いに名も告げぬまま半年後の再会を約したが、相手は来ない。春樹はひとり淋しく姉の悠起枝の待つ三重県の漁村に帰ってゆく。戦争未亡人、姉悠起枝とのやりとり。そしてまた東京―。ふたたび加藤幸子…)

「その夜遅く、東京の数寄屋橋橋畔、昨夜後宮春樹が真知子の姿を探した橋の手すりのあたりに、一人の年老いた男が佇( たたず)んだ。男はもう汚れてしまった軍服をうすら寒く身にまとっていた。その軍服には、かつて陸軍少将の肩章が縫いつけられていたのだが、今はその肩章のあとだけ服地の新しいのが、いっそうその姿をわびしく見せている。彼は行き暮れた旅人である。やがて年老いて疲れはてたその男は、そこにくずれ折れるようにして眠ってしまった」

( 音楽が徐々に高まって―終る。)

以上が1回目の放送分である。例の有名になった「忘却とは忘れ去ることなり、忘れ得ずして忘却を誓う心のかなしさよ」―で始まるのは少し後のことである。劇中、佐渡に連れて来られた真知子が絶叫する。

「東京へ帰りたい!」「もういちど、あの人に逢いたい!」

師の小松崎茂先生は、この真知子の絶叫で、押さえ込んでいた望郷の思いが、一度に燃えあがった。

「もうひと稼ぎして東京へ帰ろう!」―そして仕事に一層拍車がかかった。

 

変わってしまった数寄屋橋

日劇切符売場の絵▲日劇切符売場(小松崎茂・画 S11)

作者菊田一夫は「君の名は」を通して、戦後の一大叙事詩を描く予定だった―と書いているのを読んだことがある。そういえばドラマの最初の頃には、そうした作者のシリアスな意気込みが感じられる。しかし、爆発的な人気を博すに連れ、だんだん春樹と真知子のすれ違いドラマになり、単なるメロドラマになってしまったのは周知の通りである。

それにしても、あの当時、私達の生活は、まだ「戦後」の中にあった。しかし、どん底の生活も少しずつ上向きになりつつあって、ぼちぼち焼け跡、闇市の時代を回顧するゆとりみたいなものが出来つつある頃だった。

飢えてはいたが、「明日への希望」みたいなものが確かにあり、作中に登場するひとりひとりの人物像も容易に受け入れることが出来た。

「いつだって人の世の主役は人間ではなく歳月である」。ふとこの言葉が頭を過った。

日劇には私自身にも忘れ難い思い出が色々あるが、今回は数寄屋橋と「君の名は」の思い出だけで終ってしまった。次の折りに書かせていただけたらと思っている。

御承知の通り日劇の5階にあった日劇ミュージックホールにもドキドキわくわくしながら出向いたが、当時のトップスター小浜奈々子さんとは現在親しくしていて、待ち合わせて手をとり合ってカラオケへ出かける仲である。手をとり合って―というのは小浜さんは今両膝の関節を痛めており大治療中で、私も長い入院で足腰がすっかり弱っていて、二人ともよたよた歩きなので「洒落にもならないネェ」と笑い合っている。

最後に蛇足として、昭和22年松竹映画「地獄の顔」の主題歌は「夜霧のブルース」「長崎エレジー」「雨のオランダ坂」「夜更けの街」と4つの主題歌が皆ヒットして話題となった。「君の名は」でも「君の名は」「君いとしき人よ」「君は遥かな」「黒ゆりの歌」「花のいのちは」「忘れ得ぬ人」とほぼヒットした。もうひとつ伊藤久男が絶唱した「数寄屋橋エレジー」より「…人はかわれども数寄屋橋の顔はいつもかわらない」。いやいや数寄屋橋の顔はすっかり変わってしまいましたよ菊田一夫先生!嗚呼…。

 

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