「私の昭和史(第3部)―昭和から平成へ― 夢見る頃を過ぎても」は昭和ロマン館館長・根本圭助さんの交友録を中心に、昭和から平成という時代を振り返ります。

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夢見る頃を過ぎても(27)

昭和ロマン館の誕生と佐藤照雄先生[前]

根本 圭助

昭和10年2月、東京・南千住に生まれる。第二瑞光国民学校4年生の時罹災。千葉県柏町に移る。小松崎茂に師事。主な仕事は出版物、及び特にTVキャラクターのマーチャンダイジングのイラストで幅広く活躍する。現在松戸市在住。小松崎茂作品を中心に昭和の雑誌文化を支えた挿し絵画家たちの絵を展示する「昭和ロマン館」館長。

ドンキホーテ 佐藤照雄画▲ドンキホーテ 佐藤照雄画

それは、私にとって、若い頃からというより、少年時代からの夢だった。一寸大袈裟だが「昭和を彩った大衆アートの旗手たち」。

つまり「昭和」という時代のなかで出版美術を彩った雑誌の挿絵や口絵。今風の言葉で言えば、「昭和時代のイラストレーション」をまとめて展示する施設が出来たら良いなァーという夢だった。

昭和時代を代表する大衆文化又は娯楽と言えば第一に映画であり、更に時代から生まれた多彩な流行歌であり、そして雑誌の挿絵であり、テレビが入ってくる。現在は日本画、洋画等の所謂タブロー(本画)と、イラストレーションの世界の差別は少なくなった―という人も居るが、どっこいそうした差別は簡単に消えるものではなく、根強く残されている。かって、挿絵の大半は消耗品として、使用後は返却されず破棄されたり、焼却されたりして来た現実にファンとしてたまらない憤慨と愛惜の念を抱いて来た。私見を申しあげると本画とイラストレーションは全く性質を異にするもので、比較の対照とはならないものと信じて来たし、私を含め、多くの人々を楽しませてくれたイラストレーションを保存、展示、研究する館を作るということは夢の夢だった。

たとえ個人が作った小さな館であっても、それをもとに徐々にイラストレーションに関する認識が広がってくれたら、こんなに嬉しいことはない。偶々松戸市小金清志町の浅野工務店の浅野会長も同じ夢を持っていて意気投合。全く思いがけず夢が実現することとなった。

私は講談社のOBの実力者をはじめ、戦後の出版界で活躍して来た人々の中から協力者を選び準備室も設け、資料の整理に入った。建築は浅野会長の本業なので「任せろ!」ということで、新松戸ダイエー近くに立派な3階建の館が出来上がり平成12年7月21日(海の日)に華々しくオープンした。「昭和ロマン館」という名称は私が名付けた。

文字通り念願かなって立派な館が完成した時は、少なからず興奮した。常設として、今も多くのファンを持つ師の小松崎茂先生の作品と、「くるみちゃん」の漫画や、抒情画の世界で一世を風靡した松本かつぢ先生の少年物、少女物の二本柱。開館記念として「鬼平犯科帳」「剣客商売」他の作品で知られる中一弥先生の特別展で幕を開けた。因みに中先生は現在102歳で健在であり、先日も三重県の津市までお伺いして元気なお顔に接して来た。

当日は市長はもとより来賓も多く、盛大な開館式だった。

この館の目的は浅くてもいいから広く昭和文化を数多く展示してお客様に昭和という時代の思い出に楽しく浸っていただけたら―ということを目標としていたので行く行くは出版物のみならず、映画のポスター展とかスチール展とか昭和の歌謡コンサート等も予定に入れて居り、私がこつこつ集めて来た物を大いに活用することも考えていた。

開館時からの新聞、テレビ等の取材は想像をはるかに越えるものだった。

全国でも珍しい館ということで話題も広くひろがったが、覚悟していたものの、有料入館者は想像していたよりはるかに少なく、熱狂的に迎えてくれた全国からの来館者や韓国からもわざわざ二泊旅行で来館してくれた熱心なファンも居て感激したが、館の収入は僅かなもので光熱費や人件費の足しには到底ならなかった。

 

韓国から来館した熱血漢

青春 佐藤照雄画▲青春 佐藤照雄画

韓国のソウルから来た金(キム)さんは、もと学校の校長先生をしていたという大柄な熱血漢で、太平洋戦争中は日本軍として戦った経験を持っていた。生粋の日本びいきの方で、名刺には、「日本歌謡を愛する会会長」という肩書きがついていた。靖国神社は二度目というがぜひ参拝したいというので案内したが、玉砂利にひれ伏して、人目もかまわず、大粒の涙をぽたぽたと流し続けた。

現在の日韓関係では考えられないことだが、「今の韓国が存在するのは、日露戦争で日本が勝利したので、韓国も赤色化から免れたのだ」と力説し、私も大いに感激した。靖国神社には戦友も多く祀られているそうで、「これでやっと戦友の許へも行ける」とこれ又涙涙の喜びようだった。「昭和ロマン館」の開館は取り寄せている読売新聞で知ったと言い、死ぬ前にどうしても「ロマン館」と靖国神社へ参拝したいというので、お子さん達がカンパしてくれて、訪日したという。私は近くて遠い国から訪れた日本人より、もっと日本人らしい金さんの心根を大事にしたく思い、こっそり滞在費は全部私の負担にした。靖国神社の帰りには渋谷へまわり、当時道玄坂上にあった「昔のうたの店」へ出かけ、戦時歌謡を中心に居合わせた10人近い人々と歌い合った。

金さんは日本人のマニアさえ驚く程古い歌をよく知っていて美ち奴の「軍国の母」を文字通り熱涙を振りしぼって歌っていた。ソウルへ帰った金さんからは何回もお誘いをいただき、電話でも話し合ったが、健康を害されて寝込んでいるという報を最後にぷっつり連絡がとぎれた。

 

佐藤先生と浜田勝己さん

今月は敗戦記念日。今年も閣僚の靖国参拝で色々うるさい話になっているが、金さんのことを思い出してつい話が大きく外れてしまった。話を「ロマン館」設立時へ戻すことにする。

館の企画がきまった時、私の頭には真っ先に佐藤照雄先生のことが思い出されていた。

しばらく御無沙汰していたが、主旨をお話すると、大層喜んでくれて、「これ位の描写力がないと、挿絵なんて描けない。そんな見本となる作品を塾長のために描いてやるよ」と快諾して下さった。佐藤先生は私を昔から「塾長」と呼んでいて、私はその度に恥ずかしさで身をすくめていた。早速浅野会長を伴い佐藤家へ伺い、「ドンキホーテ」の作品と裸婦の油彩画、裸婦デッサン数点を頒けてもらって来た。

新松戸に完成した頃の昭和ロマン館の写真▲新松戸に完成した頃の昭和ロマン館

佐藤先生との出会いは私が高校生の頃で、今は地下鉄も通って便利になったが練馬の奥の方で、西武線江古田駅から随分長く歩いた記憶がある。連れて行ってくれたのが浜田勝己さんという私より年は2つ位若かったが、小松崎家への入門が私より少し早かったので兄弟子ということになっていた。小松崎家では年令に関係なく入門順に弟子の順序をきめていた。

浜田勝己さんを、私達は「勝己ちゃん」と呼んでいたが、当時中学生のくせに、すでに大会社の絵本を手がけていた天才児だった。

佐藤先生はどの会にも属さず文字通りの一匹狼で生涯を通した。大陸生まれで酒を愛し豪快な人柄だった。リアルで重厚な絵を得意とし、誰からも一目おかれる存在だった。それでも生活は苦しい時期が続き、少年雑誌の仕事をしたこともあり、そうした意味で、挿絵のことも熟知していて、今回の「ロマン館」にも佐藤先生の重厚な作品は是非欲しいと思っていた。

佐藤先生も生活苦から、当時稼ぎまくっていた小松崎先生に絵を買ってくれと持ち込んだことがあった。50号程の作品は、暗いセピア調の絵で右手を前に差し出した裸婦を左後方の方から描いたものだった。モデルは奥さんだという話はすぐ耳にしたが迫力のある素晴らしい作品だった。先生は無造作に2階に掛けたまんまだったが、私はこの絵がたまらなく好きだった。いつの日か先生と交渉して譲り受けようとさえ思っていたが、残念なことに平成2年小松崎家全焼の際灰燼に帰してしまった。

さて、私を佐藤先生の所へ連れて行ってくれた勝己ちゃんは、かって銀幕のスターとして人気を博した江川宇礼雄さんの義弟であり、晩年の江川さんは初期のテレビ番組の「私だけが知っている」のレギュラーであり、長く薬の「チオクタン」のコマーシャルをやっていたのでその顔は御存知の方も多いと思う。

勝己ちゃんに連れられて佐藤先生宅を訪れた時、佐藤先生は、ベニヤ板でアトリエの修理をしていた。寒い日で、「さあ早く中に入んなさい」といって、工具をしまいアトリエの中へ招じ入れてくれた。 (次号へつづく)

 

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