「私の昭和史(第3部)―昭和から平成へ― 夢見る頃を過ぎても」は昭和ロマン館館長・根本圭助さんの交友録を中心に、昭和から平成という時代を振り返ります。

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夢見る頃を過ぎても(29)

遅咲きの大花やなせたかしさん逝く

根本 圭助

昭和10年2月、東京・南千住に生まれる。第二瑞光国民学校4年生の時罹災。千葉県柏町に移る。小松崎茂に師事。主な仕事は出版物、及び特にTVキャラクターのマーチャンダイジングのイラストで幅広く活躍する。現在松戸市在住。小松崎茂作品を中心に昭和の雑誌文化を支えた挿し絵画家たちの絵を展示する「昭和ロマン館」館長。

やなせたかしさん(左)と筆者の写真▲やなせたかしさん(左)と筆者

「アンパンマン」のやなせたかしさんが、お亡くなりになった。94歳だった。私がやなせさんにお目にかかったのはほんの数回ほどだが、お会いする度に人生とか運命とか、そんなものに思いがいって、別れた後、物思いに耽ることが多かった。やなせさんは、皆様も御存知のように文字通り遅咲きの人だった。

私は「アンパンマン」を発表する前にもお会いしているので、「アンパンマン」の大ヒット前の詩人としてのやなせさんとの印象が強かったが、数々の病気と闘いながら、一途に自分のメルヘンの道を歩いたやなせさんには、心から畏敬の念を抱いている。

「昭和ロマン館」の開館準備をしていた頃、評判になっていた四国高知の「アンパンマンミュージアム」にも見学に出かけたことがあった。幼い子供さん達が、大勢集まっていて、楽しく遊んでいる「アンパンマンミュージアム」を羨ましく拝見して帰ったのが懐しく思い出される。

ちょうど隣接して「詩とメルヘン館」が併設されていて、やなせさんの原点に触れた思いがした。「アンパンマン」が発表された時、私はそれがこんな大ヒットの作品になるとは想像出来なかった。長いことテレビキャラクターのマーチャンダイジング用のイラストを描きつづけ、キャラクターぼけをしてしまっていた私には、新しい番組でも私のヒット予想が当たった例は逆に少なかった。「ドラえもん」などは始まった時、ヒット間違いなし! と思ったが、人気という魔物の正体は到底人智では測り知れないものと思っている。自分の中の純粋な童心がすっかり摩耗して目先の現象を追うのが精一杯の仕事を続けて来た。いやこれは元来私に才能そのものが無かったのが原因だとしか思えない。

 

返ってきた若き日の絵

筆者高校卒業時の作 小田富弥の模写▲筆者高校卒業時の作 小田富弥の模写

日本語とは巧く出来ていて、「好きこそものの上手なれ」という言葉があるかと思うと「下手の横好き」という言葉もある。私は完全に後者の方で、絵本、雑誌の挿絵、広告関係すべてのジャンルのおよそ今の言葉でいうイラストレーションというものは、ジャンルを問わずすべて興味があり、夢中になって来た。二、三年前高校時代の友人が突然訪ねて来て、卒業時に私が描いて彼にプレゼントしたという絵を届けてくれた。

私は元来幼児向けのイラスト(童画)の世界に進む予定だったが大衆物の挿絵にも大いに興味があり、持って来てくれた絵はそんな大人向けの絵の一枚だった。当時は友人に頼まれて、グリア・ガースンやらイングリッド・バーグマン等の女優像やら、SKDの川路龍子や小月冴子のブロマイドをもとに随分頼まれるままに描きまくったが、この返却してくれた一枚はすっかり失念していた。

そう、思い返すまでもなく、スタートからして私の頭は方向感覚を失っていたらしい。

しかしそのあらゆるジャンルに興味があったことが商売としてはプラスになり、テレビの様々なジャンルのキャラクターを描くことに適していたのだから、人生皮肉なものである。私は開き直って、何とか誰にも負けないアルチザン(職人)ならんとしたこともあったが、テレビキャラクターの波に押し流され、溺れてしまった自分に気付いた時はもう後の祭りで、私はその世界で完全に自分の姿を見失ってしまっていた。私より以前には、テレビキャラクターのグッズ用のイラストを専門に手がけた人は居なかったので手塚治虫先生は晩年私を人に紹介する時、「この世界の草分けの人です」といつも大袈裟に紹介して下さったが、私自身はこの世界でまったくの迷子になって悩んでいたので、それがたまらなく恥ずかしく、淋しく感じられた。

冒頭、人生とか運命とかに触れたが、80歳近くになると、どうも人には寿命というものがあり、天命というものがあり、己の歩んで来た道も所詮は定められた運命そのものに思えてならない。やなせさんの遅咲きの開花にも同様の思いを抱いてしまう。

 

若き日の筆者の模写「すいれん物語」▲若き日の筆者の模写「すいれん物語」

やなせさんは晩年日本漫画家協会の会長を務め、「アンパンマン」の収益で協会も随分助けられたと聞いている。

最後にお会いしたのは何のパーティだったか忘れてしまったが、パーティの最中、私の所へ寄って来て私の肩を抱くようにして、耳許で「Y美術館で展覧会を開いてくれたが、あそこで取り上げられたらもう私もオシマイよ」と肩を叩き歌いながら他の席へ移って行った。Y美術館は故人や過去に栄光のあった人を取りあげることが多いので、そうしたことへの自嘲めいた言葉だった。

細身で、おしゃれで、いつも歌を口ずさんでいた。遅咲きの花万々歳である。

今回は私がこの世界で迷子になるきっかけとなった返って来た若き日(高校卒業時)のイラストを見て、改めてだらしなく安易に過して来た私の人生そのものに対するジレンマに心を沈ませている。

こうしたイラストがスタートとなり、後年「月光仮面」「隠密剣士」「白馬童子」「鉄腕アトム」「エイトマン」「鉄人28号」「ウルトラマン」「仮面ライダー」「ひみつのアッコちゃん」「魔法のマコちゃん」…等々およそ描かなかったテレビキャラクターはない程、あらゆる分野のヒーロー、ヒロインを描きまくってきた。返って来た若き日の模写作品から、私が迷路へ迷い込み、徒に馬齢を重ねてしまった自分が情けなくてたまらない。

これも私に課せられた運命だったのかもしれない。

 

伊豆大島の災害に想う

金木犀の香りで、やっと暑かった夏の日から解放されると思ったが、それも束の間台風のラッシュで、あっという間に花の香りは消されてしまった。猛暑、竜巻、そして台風…何回も報道される「観測史上はじめて―」「想定外」という言葉にもうんざりとさせられている。

伊豆の大島を襲った今回の台風の被害は甚大で、多くの犠牲者を出している。もう昔話になるが大島の元町には、古い友人一家が移り住んでいた。難を免れたかどうか住所も判らず、確かめようもない。そういえば―昭和61年11月15日、大島の三原山が15年振りに大噴火をしたことがあった。記録によれば19日には溶岩が流出、21日は別地点から再度大噴火。溶岩が外輪山を越え中心街の元町地区に迫ったため全島民に避難命令が出た。海上保安庁、海上自衛隊が急遽出動。翌22日未明までに船で全員を島外に脱出させた。溶岩の流れは衰えず危険が去らないため、住民一万人は1か月にわたり不便な避難生活を余儀なくされた。全員帰島が実現したのは12月22日であったという。

実はこの避難民の中に大島永住を心にきめて大島で暮らしていた俳優の水島道太郎さんの姿があった。後年、親しくしていた歌手の胡美芳さんの紹介で大島移住を断念した水島さんと知り合い、「昭和」を回顧する楽しい会を作ろうということで、水島さんとはその夢の実現で大いに盛りあがった。ディック・ミネさんが亡くなり、かなりの高齢にもかかわらず、ダンディーな水島さんは、テレビでもよく「夜霧のブルース」を歌っていた。私が主催した歌の会でもゲストで来てくれて「夜霧のブルース」を歌ってくれた。「昭和を愛する会」はかなり良い線まで話が進んだが、立川談志さんがこれに加わり、夢のような話を水島さんに吹き込み、水島さんはすっかりその話に酔ってしまった。

談志さんはその後知らんぷり。水島さんは、しばらくして急逝してしまった。この話は数人の関係者きり知らないが、師匠から「一度ゆっくり話そうよ」と言われていたが、その談志師匠も亡くなり、「昭和―」の話は夢と消えてしまった。やなせさんも水島さんも談志師匠も皆彼岸へ渡ってしまった。秋の夜長、やっぱり一人暮らしの身には淋しいことばかり思い出されてしまう。

目に泪ためてめつむる夜寒かな 呉夫

 

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