夢見る頃を過ぎても(36)
峻一兄から引き継いだ秋田との縁
根本 圭助
昭和10年2月、東京・南千住に生まれる。第二瑞光国民学校4年生の時罹災。千葉県柏町に移る。小松崎茂に師事。主な仕事は出版物、及び特にTVキャラクターのマーチャンダイジングのイラストで幅広く活躍する。現在松戸市在住。小松崎茂作品を中心に昭和の雑誌文化を支えた挿し絵画家たちの絵を展示する「昭和ロマン館」館長。現在は、「昭和の杜博物館」理事。
大雪で苦しめられた長い長い冬が去って、花の季節を迎えた。と思ったら花も終り、山には残雪も残るが、農家は農繁期を迎えている。秋田県湯沢市を流れる雄物川でその日の野良仕事を終えて、使用した農機具を洗う三人の秋田おばこからは、はじけるような笑い声が聞こえてくるようだ。といってもこれは昭和30年代の写真である。
ここで又時代は大きく遡行する。
昭和29年集英社発行の月刊誌『おもしろブック』に「冒険船長」という別冊付録がついた。
その一冊分を小松崎一門の兄弟子の岩井川峻一が引きうけた。「これを仕上げて二人で秋田へ出かけよう!」。私は19歳だったから、今からちょうど60年も前の話になる。秋田は兄弟子の故郷だった。この「冒険船長」は、レアな雑誌付録として、ネット上にも時折顔を出すそうである。原稿料は私達が想像したよりはるかに多く、私達二人は有頂天になって秋田へ旅立った。私の家も同様だったが、兄弟子(峻一兄と呼ぶことにする)の家もひどい貧乏暮らしで、私達二人の来訪は文字通り盆と正月が一緒になったような騒ぎだった。近所の人達も集まって来て「東京の話を聞かせてほしい」と言って数軒の家から毎夜夕食を招びに来た。テレビも普及していない頃で昭和20年代の終り近くはまだそんな時代だったのである。峻一兄とちょうどその頃縁談がきまった峻一兄の妹さんの3人で男鹿半島の方まで足をのばした。大騒ぎされて峻一兄も近所の人達に囲まれて様々な約束をしたが、その後色々なことが重なり、峻一兄は、昭和30年5月7日睡眠薬により、あっけなく自らの命を絶ってしまった。この上ないショックだった。兄弟子であり、親友でもあり、私にとってはかけがえのない存在だった人なのである。
「東京のお兄さん」
秋田湯沢の人達とはそれ以来すっかり縁が深くなった。私は、「東京のお兄さん」と呼ばれ峻一兄が約束したこともすっかり引き継いで、秋田の家とは親類以上の交際になった。中学、高校を卒業する前の修学旅行には、峻一兄が約束していたので毎年何人かずつ私を頼って連絡して来るようになった。東京見物の人気は、男子は後楽園球場が多く、女子の大半は浅草の国際劇場が多かった。このシリーズの最初の頃詳述した通り、私は国際劇場はフリーパスで入れたので、時には高校生の女の子を10人近くも連れて行き、大道具の人達に「圭さん、今日は団体かい」と冷やかされ、私も自身の図々しさに顔が真っ赤になったこともあった。劇場で遊び、定刻までに宿へ送り届けるというような生活が10年近く続いた。又峻一兄のお父さんは、土地改良区の役員やら、リンゴの出荷組合の責任者もしていたので、毎年7〜8人連れで市場視察で上京して来た。(今は知らないが)秋田産のリンゴは一旦青森へ出荷され、「青森リンゴ」として東京の市場へ送られてくることも初めて知らされた。主に千住のヤッチャ場(青果市場)が多く、私はその人達にも食事の接待などをしなければならなかった。まだ働きも充分でなかったので、これらは年中行事になり、修学旅行と合わせて結構賄うのも苦労したが、朴訥(ぼくとつ)な東北の人達の素直に喜んでくれる笑顔が嬉しかった。
それにしても、一年手塩に掛けて苦労して育てたリンゴが、東京の市場へ着く日の天候で値が左右されるということにも驚かされた。
一同が固唾をのんで見守る中で、乱暴に木箱を開けられたりんごの値が一瞬できめられてしまう。中には丸噛じりして味見をする人も居て、毎年私はドキドキしてその光景を眺めていた。
何年かしてグループの一人の御主人が、「東京のお兄さん、私の娘を嫁っこに貰ってくんねえかな…」と言って来た。夜行列車に乗る前で、皆で夕食をとっている席だった。
当時私は長いこと結婚問題がこじれて悩んでいた頃で、ぐずぐずした話に終止符を打って、ご縁の出来た秋田から妻を迎えるのも良いかな―と思い、お見合いを承諾した。
すぐにお見合い写真が送られて来たが、同時に肝心の峻一兄のお父さんから長々とその話に乗らないでほしいという手紙が届いた。何でもこの話のすぐ後に「秋田おばこ」のコンテストがあり、彼女が準ミスに選ばれて、それ以来、彼女を含め家中がその自慢で人柄も変わってしまって、近所ともつき合いが悪くなってしまったそうで、だから絶対に受けないでくれという強い文面だった。私の方は写真も送ってないし、峻一兄のお父さんの言う通りにするしかなく、私の「お見合い」はそのまま中止になってしまった。
名前も覚えていないが、三人のうち真ん中に立っているのがその彼女で、会う機会もなかった彼女の写真を見ると妙な気分になる。
左がK子さんで右が妹のM子さん。2人とも、高校の修学旅行で一日お世話の真似事をした方達で、K子さんからは就職をした報告など何回かお便りをいただいたが、筆不精の私はそのままで50年以上の歳月が流れてしまった。
50年ぶりの再会
数年前の暮のことである。何の番組だったか私が取材を受けているのをテレビで見たK子さんが局へ問い合わせて私へ電話を掛けて来た。
「秋田のK子です! 判りますか?」と言われ「K子さん!?」と私も答えたが50数年振りのことで、私も驚き興奮してしまった。彼女は電話口で泣き出し、それが号泣に変わった。
御主人は単身赴任で中国へ行ったままで、中国女性に囲まれてウハウハしているそうで、何よりもK子さん自身癌に冒されていて、「年を越したら、手術がきまっていてもう生きては帰れない…」と涙々である。「折角消息が判ったのに…」で又涙である。結局会いに来るというので、上野駅で会うことになった。彼女は神奈川県の奥の方に住んでいた。何しろ50数年振りなので、ホームで会うことになった。お互いにすぐ判ったが、すし屋に入ってもろくに食べてくれないので暮のアメ横の喧騒を避けて、静かな喫茶店で昔を語り合った。私は彼女の病気が心配で真冬でもあり、早目に帰りを促した。
上野駅のしのばず口はすぐ近くだが、名残り惜しくもあり、公園口まで送ることにした。
アメ横を中心に明るく賑やかなのに上野の山はひっそりと暗かった。突然彼女が「手袋をとって!」と言って手をつないできた。そしてわあわあ泣き出した。私も貰い泣きして二人して泣きながら上野公園を手をつないで歩いた。
駅近くになった時、彼女は急に私の手を引いて、木立の暗がりへ導いた。そして突然「私は子供を二人生んだけど、友達から『Kちゃんのオッパイは娘時代のまんまだネ』と言われるのよ」と熱っぽい息づかいで言うと、あっという間にコートの前を開き、セーターの上からだったが私の手をしっかり乳房に押さえつけた。
急な出来事で私は全く狼狽してしまった。
「ネ、可愛いでしょ!」と彼女は私に囁いた。茫然として私は言葉も失い立ちつくしたが、彼女は手早く身繕いをし、コートのボタンをかけ、涙を拭い「これでさようならネ」と言って信号を渡り、明るい駅の改札口へ去って行った。
年が明けて、私は形見のつもりで置いていった品物を眺めつつ、あの夜の余韻がさめず、手の平に残る彼女の乳房の感触を思い、何よりも病気のことを気にかけていた。
どうも婦人科系統らしいので、男としては聞きづらかった。此方からの電話は禁じられていたが、電話が入ったのは7日過ぎで、「癌じゃなかったのよ!」と元気な声だった。「主人も中国から帰国し、今二女の結婚準備で大忙し!」。電話の声は別人のように明るく朗らかだった。近所の一人暮らしのおじいちゃんの世話もしていること。そのおじいちゃんはタレントの内田有紀ちゃんのおじいちゃんだということ。「もう死ぬんだと思って恥しいことしちゃった」と言って電話を切った。あれから数年たったが、その後全く音沙汰なし。しかし、70歳を過ぎた私にとっては、信じられない程の刺激的な出来事だった。
やはり数年前秋田県会議員を務めていた峻一兄の弟が訪ねて来たが、その直後、脳溢血で倒れ急逝した。私の紹介で亀戸の自動車修理工場へ就職した三男のRはその工場を辞めた直後から消息を絶ち、家族へも音信不通の50年だったが、何と松戸の古ヶ崎のアパートで一人暮らしをしていて、これも脳溢血で倒れ、隣人のお世話で病院へ運ばれ、亡くなっていたこともつい最近警察関係の人から伝わって来た。人生いろいろ。「東京のお兄さん」は「東京のおじいちゃん」いや「松戸のおじいちゃん」に変わっている。
今月は、峻一兄の命日が巡ってくるが、奇しくもこの日は没年こそ違え、亡妻の命日と重なっている―。