夢見る頃を過ぎても(40)
この夏に逝った3人の大切なひと
根本 圭助
昭和10年2月、東京・南千住に生まれる。第二瑞光国民学校4年生の時罹災。千葉県柏町に移る。小松崎茂に師事。主な仕事は出版物、及び特にTVキャラクターのマーチャンダイジングのイラストで幅広く活躍する。現在松戸市在住。小松崎茂作品を中心に昭和の雑誌文化を支えた挿し絵画家たちの絵を展示する「昭和ロマン館」館長。現在は、「昭和の杜博物館」理事。
玄関のドアを開けると、ふと何かが匂った。気がつけば、今年も金木犀の季節を迎えている。今年の夏は異常気象で、大雨の被害が、西からも北からも伝わり、そして予期せぬ御嶽山の大噴火…。そして台風。今更ながら、災害列島に生活する不安と恐怖を再認識させられた。
東日本大震災の復旧作業も遅々としている中で、季節はどんどん冬に向かっている。
10月8日は「寒露」、23日は「霜降」というように、暦の10月の項には早くも冬に向かう言葉が並び始めている。
太陽の光も弱まり、地面がだんだん冷えてゆく様が、近所の畠からも実感させられる。
日本の詩歌にはよく「露霜(つゆじも)」という言葉が出てくるが、この言葉は奈良時代には、にごらないで「つゆしも」と読んでいたという。「露霜」は「星霜」と同じように歳月の意味にもなっていて、露から霜への移ろいには季(とき)の流れが実感されて、激しい季節の去ったあとの淋しさを感じさせられる。
私はこの夏に3人の大事な人を失った。
一人目は私のすぐ下の弟で、5歳違いのこの弟とは戦時下の疎開中に、10歳だった私は弟のために食べ物のことで随分苦しく切ない思いをした。
二人目は、親しくしている藤田三保子さん(鳩子の海、Gメン75)のシャンソン・リサイタルの会場で知り合ったY子ちゃん。不思議な出会いだったが、その後、遊びのグループ仲間では、いつも明るく元気で、誰からも愛され、旅行にも出かけたり、一人暮らしの私は随分とお世話になった。悪性の癌だったが、本当にかけがえのない人だった。
三人目は、仕事を通じて知り合ったMさんで、もう30年近い付き合いだが、ここ数年は御無沙汰していた。脳溢血で急逝したという奥様からの突然の電話で、私は一瞬言葉を失った。同時代を共有した友(男女とも)が他界するということは、故人の中に生きていた私自身も死んでしまうわけで、この夏は大きな穴が3つも心の中に空いた思いで、淋しく虫の声を聞いている。
Mさんのお父さんは、学徒出陣で応召され、南の島へ移送される途中、米潜水艦に船が撃沈され、太平洋に眠っていると聞いていた。もう今から71年前の昭和18年、小雨降る肌寒い明治神宮外苑陸上競技場で、関東地方の入隊学徒を中心に送る人、送られる人7万人を集め、「出陣学徒壮行会」が開催されたのが10月21日のことだった。
三八式歩兵銃を肩に乗せ、トラックを行進する総勢約3万5千人の学徒の隊列の中には、戦後、プロ野球で活躍した青バットの大下弘や、「水戸黄門」の西村晃、俳優の根上淳なども居たという。
あの沈痛ともいえるニュース映画の場面は、荘重な軍楽隊のマーチとともに、折に触れては紹介されているので、読者の皆様の中にも記憶している人も多いことと思う。
余談になるが、あの実況放送をしたのが、スポーツ放送などで一世を風靡した名アナウンサー志村正順さんで、荒川区南千住の「川萬」という日光街道に面した大きな乾物屋さんの出身だった。世代こそ違え、私も同地の生まれで、祖母とよく買物に寄った店だが、「川萬」が志村アナの生家だと知ったのは、ずっとずっと後のことである。あの歴史に残る放送は、実は先輩の和田信賢アナウンサーが放送する筈だったが、放送開始の10分前に「お前がやれ」と言われて放送したというが、いつ見ても、悲壮感で心に重く残る映像である。
和田信賢は、戦後「話の泉」などでも活躍したが、昭和27年のヘルシンキ五輪の帰途、40歳で夭折している。
志村さんの話にもどるが、野球では解説の「何と申しましょうか」の小西得郎さんとの絶妙なやりとりや、相撲では初のNHK専属解説者、元関脇の神風正一さんとのやりとりもなつかしく思い出される。
蛇足を承知で付け加えるならば、昭和34年6月25日、野球ファンならずとも誰でも知っている、天覧試合での長嶋がホームランを打った試合の放送中、志村さんは喉(のど)に違和感を感じ、検査の結果、異常はなかったものの引退を決意したという。折しも世の中はテレビの時代に移っていた。翌年だったか、「柏戸」が初優勝した初場所をテレビ放送。それを最後に、志村正順はアナウンサー生活の幕を閉じている。
様々な想いを歌に乗せ
ここでガラリと話題を変えさせていただくが、私は何が嫌いといって、カラオケぐらい嫌いなものはなかった。晩年の塩まさるさん(九段の母・昭14)と20年程ボランティアで一緒に行動しているし、昔の歌は大好きで、昔の歌を知っているという点では多少の自負はあったが、人前で歌を歌うなんてことは想像もつかなかった。
昭和も終わる頃、入谷から上野方面にちょっと入ったところに山伏町という町会があり、そこに大広間つきの山伏町会館という町内会館があった。そこで月一回「なつメロ愛好会東京支部」という集りがあり、50〜60人位の人が集まっていた。当時FM東京で「日本のうた」という番組があり、番組関係者の幅屋三樹さんと番組司会者で声優の武藤礼子さんに誘われて、「聞くだけ。ゼッタイ歌わない」という約束で出向いた。
受付順に代わりばんこに持参しためずらしいカラオケでなつメロを歌う。カラオケのない人は、アコーディオン奏者が控えていて伴奏してくれる。まったくマニアックな会だった。
会半ば頃、武藤さんから名指しされ、「約束と違う!」と私は大抵抗したが、周囲の人にも促され、仕方なく舞台に引きずり上げられた。冷や汗を拭いながら、アコーディオンの伴奏で赤坂小梅さんの「浅間の煙」(昭12)を歌った。
会場には知人もちらほら。昔話も楽しいままに、だんだんマニアの人達の輪にのめりこんでいった。その頃から、なつメロ好きの立川談志師匠から「マヒナの松平直樹も来ている店だぞ」と中野坂上の「艶歌」という店に何回か誘われたが、私は空恐ろしく逃げ回っていた。
その後親しいKさんに無理に誘われて、渋谷道玄坂上の「昔のうたの店」に通うようになり、私は完全にカラオケファンになってしまった。この店は今は新宿の大久保に移っている。
ママの台詞が抜群で、楽しませてくれる。その後、仲間のお誘いで、巣鴨の「カロママ」という店にも通うようになった。この店のママは美人で何とも気配り豊かで、手料理まで出してくれて、快くデュエットにも応じてくれる。さらに、これも強く誘われて西武新宿線「新井薬師」駅近くの「テァター」へも出かけるようになった。「音響一番、曲数一番」を売り物にしたこの店は、数年前、手づくりのなつメロカラオケ(画面入り)が3千曲を超えた記念パーティを行い、私も発起人の一人に選ばれたりしたが、「なつメロファンは年寄りが多く、先行き見込みがない」と言って昨年閉店してしまった。それより前、中野坂上の「艶歌」もマスターが亡くなって閉店した。
柳家小三治さんの後を受けて落語協会の会長を務めている柳亭市馬さんは、柳家小さんの最後のお弟子さんと聞くが、生粋の古典落語家である上、すばらしい歌声の持ち主で、最近CDも出して、とうとう歌手の仲間入りを果たした。
何年か前に柏で一緒に食事をしたことがあったが、「テァター」で一緒になり、何回かすばらしい声を聞かせていただいた。私の歌はひどいもので、我ながら、よくもまあ図々しく出かけているもんだとあきれながらも、仲間も増え、先日は巣鴨の「カロママ」で亡くなった李香蘭さんを偲んで、「蘇州の夜」「夜霧の馬車」「紅い睡蓮」などを歌ってきた。今月は恥ずかしいことを長々書いてしまった。
朝晩はぐっと冷え込んで、「朝寒」「夜寒」を感じるのも今頃である。「秋寒」「そぞろ寒」「漸寒」「うそ寒」「肌寒」…日本人の肌は、それだけ季節の移り変わりに敏感で、秋の寒さにもいろいろな言葉が生まれている。
夏に逝った3人を想うと、胸の中に酢がたまるような悲しみに落ち込んでしまった。
長き夜や 思ひあまりの泣寝入り(榎本星布)