夢見る頃を過ぎても(45)
悲劇の始まり―忘れえぬ東京初空襲の思い出
根本 圭助
昭和10年2月、東京・南千住に生まれる。第二瑞光国民学校4年生の時罹災。千葉県柏町に移る。小松崎茂に師事。主な仕事は出版物、及び特にTVキャラクターのマーチャンダイジングのイラストで幅広く活躍する。現在松戸市在住。小松崎茂作品を中心に昭和の雑誌文化を支えた挿し絵画家たちの絵を展示する「昭和ロマン館」館長。現在は、「昭和の杜博物館」理事。
3月という月を迎えると、私たちの世代ではどうしても東京大空襲の劫火の夜の記憶に意識がいってしまう。今年は特にあの8月15日の敗戦記念日から70年の節目の年とあってみれば、当然東京大空襲からも70年の歳月が流れたことになる。
何年ぐらい前だったか、日暮里駅近くの有名な芋坂の羽二重団子の二男さんという方から突然お電話をいただいたことがあった。作家の吉村昭先生が、噂で私のことを知り、会って東京初空襲の日のことを聞きたいという内容の電話だった。
吉村先生は私も大ファンだったので、突然のお電話で光栄にも思い、楽しみにしていたが、少し後、吉村先生は不帰の人となってしまい、お会いできる機会を逸してしまった。
あの初空襲を私は物干しからはっきりと見ている。国民学校(小学校)4年生だった私が何故その時家に居て空襲の状況を垣間見る機会に遭遇したのか、長い間不思議に思っていたが、後になってあの日は土曜日だったことを知り、それで疑問は解決した。私の家は学校から数軒の近さだったので、当日は土曜日で半ドン(この言葉も死語となってしまった)だったので、午前中だけの授業を終えて帰宅していたのだと思う。
当時、空襲に備えて敵機の爆音だけのレコードが発売されていて、学校でも「よく爆音から機種が判るように訓練しておくように」と先生からも言われていたが、子どもの耳ではとてもじゃないが識別は難しかった。
東京初空襲は昭和17年4月18日のことだった。日本軍のハワイ真珠湾奇襲からわずか5か月に満たない時である。米陸軍中型爆撃機ノースアメリカンB25の編隊で、指揮官はH・ドゥリットル中佐だったことから、後にドゥリットル隊と呼ばれた。陸軍機なので、当然着艦フックはついていない。つまり着艦は不可能なので、日本本土を空襲した後は中国基地へ着陸する予定になっていた。短い滑走甲板での離陸の猛訓練の末の(米側としても)特攻に近い決死行だった。
「リメンバー・パールハーバー」を合言葉にB25の16機による編隊は突如として日本上空に現れた。東京を襲ったのは主力の13機だったそうで、他は川崎、横須賀、名古屋、神戸などを襲い、爆弾、焼夷弾投下に加えて機銃掃射を乱射した。B25の1機が葛飾区の水元地区に現れたのは、12時20分頃と記録にあるが、この機銃掃射により、水元国民学校高等科(現在の中学)に入学したばかりの石出巳之助君という少年が犠牲になっている。私は自宅の2階に居たが、バリバリバリという大きな爆音がして、あわてて物干しに駆け上がってみると、目の前を大きな黒っぽい機体が横切って行った。不思議に思ったのは、機の胴体に日の丸のマークではないマークがついていたことで、程なく爆弾の破裂音が伝わってきた。今ならすぐにテレビのスイッチを入れるところだが、何も判らぬままに何やら子供心に全身総毛立つ思いがしたことだけが記憶に残っている。現在この時の空母「ホーネット」の模型が松戸市紙敷にある「昭和の杜博物館」に展示されている。地元のマニアのグループ「迷才会」(小室晴二会長)の製作によるもので、50分の1の模型で全長5メートル弱の精巧なモデルで48分の1の「ノースアメリカンB25」も甲板に発艦順に並べられている。
戦争から教えられたこと
思えばこの日の空襲が悲劇の序章であり、日本本土空襲の始まりとなった。
東京をはじめ全国主要都市への空爆が日毎に激しくなっていく日も目前に迫っていた。
ちなみにこの東京初空襲の1年後、奇しくも同じ4月18日に、連合艦隊司令長官だった山本五十六大将(没後、元帥の称号を与えられる)がソロモン上空で敵機に撃墜され戦死している。そして、日本海軍はミッドウェーで完敗。その事実は国民には知らされず、まして足手まといの当時の軍国少年には毎日の空襲に怯える日々が続くようになった。
しかし、作家の曽野綾子さんが、テレビで「誤解されるのを承知で言わせていただくと、私は戦争から色々なことを学ばせてもらった」と語っていたが、私にとっても、戦争の悲惨さからは、様々のことを教えられたように思っている。
同様に戦後の飢餓に苦しんだ時代からも、非情な人々からの冷たい仕打ちや、温い人の情にも触れられて、それらは皆私の血や肉になっているように感じられる。
日本文学研究家として知られるドナルド・キーン氏は、戦後の東京の焦土に立った時、「もう東京の復興はありえないだろう」と感じたという。たしかに焦土となった東京の惨状は言葉にならない悲惨な状況だった。
父の友人のSさんは復員後国鉄へ勤めたが、軍隊時代の南の島が忘れられず、よく家に遊びに来ては面白い話を聞かせてくれた。
米軍機は沢山見たが、空襲は1回もなく皆上空を素通り。並々と注がれた大きな甕(かめ)の酒を一番多く飲んだ人が村長となり、島一番の美女と結ばれることが出来るという本当に天国のような島だったという。ただこの島で採れるさつまいもが表現できぬほど不味く、うまい甘藷と親に会いたいだけで帰国したが、「こんなひどい状況だったら、帰らなければ良かった」とよく冗談を言って笑わせてくれた。戦場へ行った兵隊さんでも、こんな人が事実居たのである。ごく稀な例だと思うが、人生さまざま。あの苦しかった時代を思い出すと嘘のような話である。
今月は明るい話題を書く心づもりが、3月ということで、空襲の話に変わってしまった。先日も同世代の人たちとの集まりで、衣料切符の話やら外食券の話が出たが、もう若い世代の人の間ではこんなことを知っている人も少なくなっていると思う。衣料切符は点数制で、歌謡曲でも楠木繁夫が「点数のうた」というのを歌っている。
ところで昭和20年3月9日の夜は妙に生暖かな風の強い落ち着かない夜だったのを覚えている。記録によれば、東シナ海に優勢な移動性高気圧、三陸沖には発達した低気圧があって、北西の風が強かった。湿度も低かった。熱風を9千余メートルの高度でも感じたという米側の証言が残っている。
一夜にして約10万人の命が消えた。
長寿社会になって、戦場で実際に闘った80代から90代の人たちが重い口を開くようになった例をしばしばテレビで観るようになった。
「軍国少年」と言われ、何の役にも立たなかった私たちの世代も皆かなり老いた。
戦争と戦後の混乱の中で過ごした私たちの世代は大体において遊びべたが多い。
社会に出てからゴルフを覚えた人は多いが、ダンスとかビリヤードなどに無縁の人がほとんどである。私たちよりむしろ年長で「モボ」と呼ばれた時代を過ごした人は思ったより遊びに長けている人が多く驚かされたことが何回もあった。
今にして思えば大変な時代に生を受けたものだと思わざるを得ないが、大きな戦争があり、広島、長崎の原爆も(直接ではないが)体験し、多くの尊い命が天に召された。戦後の混乱期があり、朝鮮戦争による特需景気を経て、経済成長、バブル時代、そしてバブル崩壊と、昭和の並々ならぬ激動の日々を私たちは生きてきた。
先日私は所用で2日続けて首都高速中央環状線を車で走った。夕もやの中でははるかに煙る首都圏の林立する高層ビルが、墓標に見えてぎょっとしたが、そういえば、ビューン、ビューンと走行し、交差する車のエンジンの音の中に、あの夜の空襲で犠牲となった10万人という人々の鬼哭啾啾(きこくしゅうしゅう)その呻き声が聞こえるような気がして、夕闇せまる車内の後部座席で私は目を閉じて車の音に耳を傾けていた。