「私の昭和史(第3部)―昭和から平成へ― 夢見る頃を過ぎても」は昭和ロマン館館長・根本圭助さんの交友録を中心に、昭和から平成という時代を振り返ります。

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夢見る頃を過ぎても(47)

懐かしい木遣りの声と浅草の三社祭

根本 圭助

昭和10年2月、東京・南千住に生まれる。第二瑞光国民学校4年生の時罹災。千葉県柏町に移る。小松崎茂に師事。主な仕事は出版物、及び特にTVキャラクターのマーチャンダイジングのイラストで幅広く活躍する。現在松戸市在住。小松崎茂作品を中心に昭和の雑誌文化を支えた挿し絵画家たちの絵を展示する「昭和ロマン館」館長。現在は、「昭和の杜博物館」理事。

昭和52年、三社祭当日に行われた吉原松葉屋花魁道中の写真昭和52年、三社祭当日に行われた吉原松葉屋花魁道中の写真昭和52年、三社祭当日に行われた吉原松葉屋花魁道中の写真▲昭和52年、三社祭当日に行われた吉原松葉屋花魁道中

けたたましい子どもたちの元気な笑い声で目が覚めた。ゴールデンウィークもとっくに過ぎて、元気に連れ立って登校する子どもたちの姿は、いつ見ても楽しい気分になる。

テレビから木遣りの声が流れて来たが、龍角散のコマーシャルだった。

木遣りの声を聞くと、何ともいえず良い心持ちになる。神田に住む友人から、9日、10日の神田祭に招ばれたが、9日は病院の定期検診日だったし、近頃は人ごみがますます苦手になり、辞退してしまった。

続いて15日から3日間は浅草の三社祭である。この方は3人の友人から誘いがあった。

皆元気でいいなぁーと羨ましくなる。といっても、私は今病気を持っている訳ではない。

月に一度松戸駅近くの新東京ハートクリニックへ通院し、検査をし、薬をもらって来るが、「今月は久々に細かい検査をしましょう」と先生に言われ、色々な検査もしたのでちょっと大げさだが1日がかりになってしまった。

結果は上々で、今のところどこにもガンの兆候も認められないそうで、本当にありがたいことだと思っている。

主治医と仰ぐ金澤明彦先生には、もう十数年お世話になっている。私にとっての神様であり、ありがたい出会いに感謝している。

私は平成13年5月、解離性大動脈瘤で緊急入院し、ちょうど8年間薬で状態を保ってきたが、ついに平成21年手術をせざるを得ない状態になってしまった。「執刀医は私に選ばせてほしい」と言ってくれた金澤先生のお言葉は一生忘れられぬ有難い言葉として私の心に深く残されている。そして大きな手術だったが、執刀してくださったのが順天堂医院の天野篤教授(天皇陛下の執刀医)で、私はこの偉大な両先生のお陰で命をつないでいただいた。

本当に幸せな巡り合いに心から感謝している。

三社祭が過ぎると、東京では入谷の朝顔市。梅雨期が間に入るが、いよいよ今年も夏本番がやってくる。浅草寺の四万六千日(ほおずき市)や隅田川花火大会。新しい風物となったサンバカーニバルも、もう目の前に迫っている。

前にも報告したが、本シリーズの1回目から昨年いっぱいまでが単行本として発行されることになった。600頁を越す大冊となり、厚さも4センチ程になってしまった。

友人たちが出版記念会をやってくれることになり、今名簿作りに追われている。

ずいぶん恥多い部分もあるが、そんな生き方をしてきた訳だから、今更愚痴っても始まらない。先日かっての仲間の集まりが浅草であり、時間が余ったので、一人で六区を歩いてみた。

やっぱり思い出してしまうのは、昭和30年代半ばまでの繁栄していた頃の六区の姿である。

誰かの文に「浅草」は東京の浅草ではなく日本の「浅草」である―というのがあった。

今の六区興行街の凋落ぶりは私にはどうしても信じられない。戦後のあの活気に満ちた浅草が恋しくてたまらない。つい先日も元SKDの千景みつるさんと国際劇場の思い出を長々と電話で話し合った。名物のひとつだったラインダンスのアトミックガールズにしても、チャチャと足並みをそろえる時、音を快く響かせるため、タップダンス用の靴をはいていたそうで、「あの靴がとっても重かったのよー」と当事者でしか分からない話もあって、とても楽しかった。ご承知の通り、浅草寺本堂は昭和20年3月10日の東京大空襲で灰燼と帰したが、隣接する浅草神社(三社様)は焼失を免れた。それにしても浅草寺本堂は開基以来、幾度も焼失と再建をくり返してきた。

戦災で焼失した本堂は徳川家光が寛永12年(1635)3月再建したが、寛永19年2月焼失。家光は再び慶安2年(1649)12月、間口104尺4寸、奥行95尺4寸の堂宇を再建した。この堂宇は、元禄以降の大修理を経て、昭和20年の大空襲の夜まで存在した。

戦後すぐの昭和20年10月には仮本堂が完成。11月18日落慶法要が営まれている。

私にとっては疎開先の千葉県柏で、「東京恋し」「浅草恋し」の想いが強かったので、戦後すぐに駆けつけたこの仮本堂時代がたまらなく懐かしい。

 

昭和52年、すっかり活気がなくなってしまった浅草六区興行街の写真「朧月夜」筆者画▲昭和52年、すっかり活気がなくなってしまった浅草六区興行街

林芙美子の短編小説に「下町(ダウンタウン)」という作品があるが、戦後の空気が色濃く伝わってくる短編で、夫がシベリアに抑留中で子どもを抱え、お茶を行商する「りよ」という女主人公が、ふとしたことで知り合った男とある日浅草へ出かけるという場面がある。

雨に遭い、仕方なく入った汚い宿で…ということになるのだが、「浅草は朱塗りの観音様も小さくてつまらなかった…」という描写があるが、これが仮本堂時代の話である。

この作品、山田五十鈴主演で映画化されたが、先日思いがけずビデオで観ることができた。

現在の鉄筋コンクリートの本堂は、戦後の昭和26年再建に着手。

昭和33年10月17日に落成した。

再建の費用の一部として浅草公園の大池(通称「ひょうたん池」)も姿を消した。

当時再建費用を集めるため、静岡の方まで観音様本尊を出張させたニュース映画を見たことがある。「浅草の観音様も商売上手で、きょうは静岡まで本堂の再建費用の浄財を集めに来ました…」というアナウンサーの声が耳に残っている。浅草六区は変貌してしまったが、雷門から浅草寺周辺は外国の観光客も多く、毎日大変な賑わいである。まさに島倉千代子が歌う「東京だよおっ母さん」の中にある通り、「お祭みたいに賑やかネ」―の通りである。そうあの歌はたしか昭和32年の歌だった。

この歌が流行った頃は浅草六区も全盛だった。まあこれ以上愚痴を言っても仕方ない。

友人に招かれて、頭(かしら)たちが集まって「木遣り」の稽古をしている席に同席したことがあった。今でも全身の毛が総毛立つほど感激したのを覚えている。

作家の安藤鶴夫先生や新国劇の島田正吾さんも「木遣り」に送られて旅立ったように聞いている。すばらしい葬儀だったろうと想像している。

今月掲載した写真は、すべて昭和52年の三社祭当日のものである。この日は吉原松葉屋の花魁道中も行われた。

50年代でも浅草六区の凋落は激しく、カメラを向けること自体ためらわれた。

話題を変えよう。

先月号でも触れたが、昭和18年4月18日、連合艦隊司令長官山本五十六が戦死した。

この死は1か月以上伏せられ、5月21日午後3時のニュースで発表された。

夏場所10日目の国技館では取り組みを中断して役員力士が整列。観客も全員起立。「海行かば」の奏楽下全員黙祷を捧げた(阿部達二「歳時記くずし」より)。

取り組みが再開された青葉山(東前頭十枚目)と龍王山(西十七枚目)の対戦は双方ゆずらず二番取り直しとなったが、またも水入り。引き分けとなった。相撲協会は軍神葬送の日、敢闘精神に欠けると言って両力士を出場停止処分としたという。

力士会長双葉山が協会に進言し、十三日目処分は解かれ、この日青葉山と龍王山は再び対戦。青葉山が右四つから寄り切ってやっと決着がついた―と記録にある。

櫓太鼓の音が5月の空に吸い込まれていく。

相撲の世界も大きく様変わりしてしまったが、今夏場所の真っ最中である。

げに今朝やまつりばんてん祭足袋(久保田万太郎)

 

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