夢見る頃を過ぎても(49)
ギリシャ危機に思う敗戦後の「新円切り換え」
根本 圭助
昭和10年2月、東京・南千住に生まれる。第二瑞光国民学校4年生の時罹災。千葉県柏町に移る。小松崎茂に師事。主な仕事は出版物、及び特にTVキャラクターのマーチャンダイジングのイラストで幅広く活躍する。現在松戸市在住。小松崎茂作品を中心に昭和の雑誌文化を支えた挿し絵画家たちの絵を展示する「昭和ロマン館」館長。現在は、「昭和の杜博物館」理事。
ギリシャの金融破綻にギリシャ国民はどのように対処しているのだろう。
私などは、もともとお金に縁のない人生を送って来たほうなので、想像もつかないが、日本でも行われた終戦直後の昭和21年の「新円切り換え」が生々しく思い出された。私は小学5年生の終わる頃だったが、子供心に、よく暴動が起こらなかったものと後々まで不思議に思えてならなかった。終戦が前年の8月で、年を越したばかりの昭和21年2月17日に新円切り換えは行われた。
敗戦のショックと、すべてを失った放心と「負けたんだから仕方ない」という諦念の中、ただただ飢えに苦しんでいたすべての日本国民は、飢えの苦しみにのみ追われ、恐慌を起こすだけのエネルギーすら持ち合わせていなかったのかもしれない。
昭和21年2月17日、インフレ阻止のため金融措置令なるものが施行され、10円以上のお札はすべて封鎖されて、預貯金の引き出しが禁止された。2月25日から旧円と新円の交換が始まり、3月3日からは古いお札は使うことが出来なくなった。
ただし新円の印刷が間に合わず、一部は旧券に切手状の証紙を貼付してスタートした。
私も割り当てられた乏しい金額の証紙をこの手でお札に貼ったことをまざまざと思い出している。
前述の通り、郵便貯金、郵便振替貯金は原則として支払い禁止。引き出し限度額は、毎月世帯主300円・世帯員一人100円、給料は500円までを現金。それ以上は封鎖という内容。預金はすべて封鎖となった。
柏市駅前のYさんという家では、部屋中のふすまに使用出来なくなった紙幣をびっしり貼って、窓を開けて通る人に見せびらかしていた。自暴自棄になっての行動だったように思う。回収された膨大なお札はその後どこへ行ったのだろうかと思っていたら、津田幸好氏の「阿波踊り、撮った踊った40年」という書に、「古い紙幣は溶かされ、紙の浴衣が作られた。それで踊った」と記述されていた。
衣料品不足とはいえ、妙な気がしたという。
余談になるが、この新円切り換えと前後して、東京・神田の須田町―小川町間に電気の部品を売る露店、約10軒が登場。これが後の秋葉原電気屋街の始まりとなった。
11月には財産税法が公布されるが、預金の封鎖は、財産税徴収のための調査も兼ねていたという。前にも書いたが勤労者給与も新円で支払われるのは500円限りであり、「500円耐乏生活」などという言葉が口に出された。
主食の遅配が続き、闇の食糧で飢えをしのいでいた時代で、新円は闇商人と農漁村に集まり、昭和22年6月の時点でも、新円は商業部門37%、農漁村18%、一般消費者には10%しか残っていなかったという記録が手元にある。
記録といえば昭和20年10月末現在の主要生活必需物資の基準価格と闇値(警視庁調べ)は、白米一升53銭→70円、みそ一貫目2円→40円、醤油1リットル1円32銭→60円、塩一貫目2円→40円、砂糖1貫目3円75銭→1000円、石けん1個10銭→20円、綿靴下1足50銭→40円、…とある。この数字が物語るように、当時の生活は悲惨をきわめた。
米穀の配給通帳制が外食券制とともに実施されたのは太平洋戦争開戦前からだったが、戦後の昭和22年7月には、全国の料飲店の営業が停止になっている。しかし仄聞によれば裏口営業で結構繁昌したという話を年長者から後になって聞かされた。
私自身の思い出としては、中学の修学旅行に東海道線の鈍行列車で往復夜行列車にゆられ、京都に一泊だけして奈良へも寄るという強行軍の旅をしたが、食事の回数分(一食一合分)の米を持参した旅行だった。
昭和25年になって、やっと東京で外食券なしで米以外の主食(そば、うどん、パンなど)が食べられるようになったが、私は外食券がなくて食事がとれなかった苦労を何回も味わっている。その内、券なしの場合は料金に券の分の代金を上乗せして食事がとれるようになり、更にしばらくして券も必要なくなって食堂で米飯を食べられるようになったのだが、苦労したことばかり覚えていて、さて自由になったそれが昭和何年頃だったかは、すっかり忘れ去っていて、どうしても思い出せない。とに角闇市の活気は凄いものだったが、一般庶民にとって、多くは高嶺の花ばかりだった。
長く単純で複雑な5年間
今年も梅雨があけて、肌に真夏の暑さを感じると、どうしても空襲の日々と戦後の飢餓に苦しんだ日々に思いが行ってしまう。そんな自分が、情けなく悲しくなってしまう。少年の日の出来事なのに、当時の記憶は、しつこく脳裏に焼きついていて消え去ってくれない。
戦争を知らない人がどんどん増えて、平和ということに慣れてしまっていることが、何となく空恐ろしいような気もする。
戦争を知っている―といっても私達の世代は直接戦場で銃をとり、死と向かい合った世代ではない。そうした先人に比べれば大声で威張れる存在ではない。
それでも少年の日に味わった辛苦の数々は脳裏に強く焼きついたままでいる。
「新円切り換え」なんて事も久しく誰からも思い出話としても登場して来ない。
そんな事もあったのかと始めて知る若い人も多いかと思う。
台東区池之端にある下町風俗資料館で「東京の戦後展」というのを開き話題を呼んだことがあった。初代館長の松本和也氏と意気投合して壕舎(戦時中防空壕として使用していたものを住居にしたもの)を作り、中に入って一升びんに入れた米の中へ棒を入れて精米した様をお客様に体験していただいたりした。
好評だったので何年かして又同じ展覧会を開くことにしたが、壕舎を形どる焼けトタンとか古材など仲々入手困難になっていた。
一回目のポスターは私が手がけた。松本館長が私の家まで来て、「あんまり悲惨な絵になり過ぎても困るから、お母さんはどこかに一寸色気を出してください。背負っている赤ん坊は、痩せて栄養失調の筈だが、少し肥らせて可愛くしてください」とかいろいろ注文をつけて帰って行った。その松本さんも先年不帰の人となってしまった。
演出家の鴨下信一さんは、偶然私と同年だが、戦後の闇市のセットを忠実に作るのは不可能に近いと著書に書いていた。たしかに私が見た映画の中でも空襲とか戦後の闇市とか、列車の殺人的混雑さとか、実感され感心させられたシーンは本当に少ない。「音楽五人男」だったか本物の焼け跡が広がる中での入浴シーンがあって、これには感心させられた。真実はもっともっと深刻であり、迫力のともなうものだった。
鴨下氏は著書『誰も「戦後」を覚えていない』(文藝春秋刊)の冒頭近く「ぼくは戦後は三つの時期に分けられると勝手に決めている。まず『敗戦後』、これは昭和25年に朝鮮戦争がはじまってその特需で日本がやっと息をつくまで。次の時代が『終戦後』。
そして昭和31年〈もはや戦後ではない〉が流行語となってから以降今日までが本当の『戦後』…(以下略)」これは正しい見識だと感心した。
今回書いた「新円切り換え」は正に「敗戦後」の話である。鴨下氏も書いているように「敗戦後」はそんなに長い間ではなかった。たった5年間だがそれはとても長い5年間でもあった。
そして、言葉に言いつくせぬ程、単純で複雑な5年間だった。
安保関連法案の是非をめぐって国会が揺れている。日本丸は、この先どこへ向かうのだろうか? 「オモカージ イッパーイ」針路は間違っていないだろうか? 無事に航海は続けられるのだろうか? 傘寿を過ぎた老人のひとり言である。