「私の昭和史(第3部)―昭和から平成へ― 夢見る頃を過ぎても」は昭和ロマン館館長・根本圭助さんの交友録を中心に、昭和から平成という時代を振り返ります。

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夢見る頃を過ぎても(55)

梅雨に心ひかれた立石寺への旅

根本 圭助

昭和10年2月、東京・南千住に生まれる。第二瑞光国民学校4年生の時罹災。千葉県柏町に移る。小松崎茂に師事。主な仕事は出版物、及び特にTVキャラクターのマーチャンダイジングのイラストで幅広く活躍する。現在松戸市在住。小松崎茂作品を中心に昭和の雑誌文化を支えた挿し絵画家たちの絵を展示する「昭和ロマン館」館長。現在は、「昭和の杜博物館」理事。

「青葉闇」(T子さん)筆者画▲「青葉闇」(T子さん)筆者画

今朝は気持ちよく晴れた。テレビでアナウンサーが「今日は、さわやかなさつき晴れです」と言うのを聞いて、「おや?」と思った。

6月号のこの原稿を書いている今はまだ5月半ばで、東京の梅雨入りにはほんの少し間がある。

年をとるとつまらないことが気になるもので、「五月晴れ」というのは、近頃陽暦5月の晴天の意味に使う人が多くなったが、本来は五月雨(さみだれ)の晴れ間―つまり梅雨の晴れ間の筈で、その上「さわやか」は俳句では秋の季語の筈である。私自身としては、一寸拘(こだわり)たいところだが、言葉も生き物で変っていくんだなあと渋々納得して「さわやかなさつき晴れ」の朝の光の中で一人コーヒーの香りを楽しんでいる。

 

わが恋は失せぬ新樹の夜の雨(石塚友二)

いくつになっても精神だけは枯れず、人恋う心だけは持ち続けたいといつも心に描いてきた。

しかし、流石に八十路の坂を越えると、そうした灯も小さくなってゆくのが自覚される。

漱石流にいえば、絶恋どころか、次第に、無恋の境に入って来ているようで、淋しいというか哀しい気分になってくる。

次々と近しい人が倒れ、去ってゆく。自分自身も同じくそういう年齢にさしかかって来たのだと実感させられる。実は先日、まったく知らない人から手紙をいただいた。長崎市五島町の人で、お名前は宮崎さんという方で、年齢は74歳と書いてあった。友人がどんどん居なくなり、またボケてしまった人も多く、当時の燃えるような情熱の時代の少年時代を語る相手も居なくなったので、どうしても30分でいいから会ってくれないかという切々とした内容の手紙だった。

何でも一度訪ねて来た折私が不在だったそうで、どうしても会いたいと言うので、25日に上野駅でお会いするよう返事を出した。

少年雑誌の話を―というので秦野市にお住まいの親しい御座(おまし)誠一さんというお方と、これも親しい群馬大学の名誉教授で上海大学の客員教授もつとめている富沢秀文先生もお呼びすることにした。そして仲間のメソポ田宮文明さん。何年か前に我々4人で会って大いに盛りあがったので、はるばる五島列島から訪ねてくる宮崎さんもきっと喜んでくれるものと信じて楽しみにしている。

 

列車の旅も様変わり

若い頃は、6月というと旅行ばかりしていた。梅雨というと雨の日ばかりを連想するが、寒くなく、暑くもなく、旅先で雨に降られたという経験はほんの数回しか覚えていない。

山形の山寺(立石寺)へ行った時に、めずらしく雨に遭ったが、しとしとと降る雨の中に咲いていた立葵(たちあおい)の美しい姿が雨の日ならではの旅情となって今もって忘れられない。

 

「立葵」 筆者・写▲「立葵」 筆者・写

旅といえば、私の手許に古い時刻表が数冊あるが、その中の大正14年4月号を散見すると、「鐵道営業御案内」という中に「車中の共同生活に就て」という欄があり、一、改札口では順序を保って戴きたい…というのから始まり、(中略)十一、無作法なことはやめて戴きたい。十二、服装を整えて戴きたい。

十三、裾をまくって腿を出したり、肌襦袢一枚になったり、婦人が細紐一つでゐたりすることはやめて戴きたい。―等々26項目にわたって「やめて戴きたい」という注意項目が載っている。因みにずっと新しい昭和5年10月号の時刻表にも同文が掲載されているが、当時の車内の風俗が彷彿とされ、楽しくなってしまった。

新幹線がどんどん伸びて、そのスマートな車体からしても昔のこうした様子は想像もつかない光景だが、つい先日の読売新聞「編集手帳」にも来年5月1日から運行がはじまる豪華寝台列車「トランスイート四季島」の原寸大の客室模型を、JR東日本が報道陣に公開した記事に触れていた。上野発着で北海道や東北をめぐる列車だそうだが、堀ごたつやヒノキ風呂も備えてあるという。高い部屋は3泊4日で一人95万円だそうで、話題を呼ぶだろうが、私にはとうてい縁のない話である。

同欄でも、「雨に濡れし夜汽車の窓に/映りたる/山間(やまあい)の町のともしびの色」(石川啄木)の歌を載せ、向いに座ったおばあさんにミカンをもらったり、若いお母さんが目の前で赤ちゃんに授乳を始めて、うろたえたり。最近は年齢のせいか豪華列車の旅よりも、お金を積んでも二度と行けない追憶の旅に心ひかれている。―と結んでいた。

私もまったく同感で、そうした旅ならしてみたいなァと思ってしまう。

大体旅の楽しみとは本来どういうものなのだろうか? 早く目的地へ着くということも、時と場合によっては有難い時もあるだろうが、ゆっくり旅情に浸れる旅をしたいものである。

次の東京オリンピックで東京はまた大きく様変りすると思う。

年寄りの我が身にとっては複雑な思いで訳が判らなくなってしまっている。

 

長い余生をどう生きる

先月一寸触れたが、共立女子大から講演の依頼が舞い込んだ。どんな話をしたら良いのか教授の方達と打ち合わせをしているが、先生達の方が興奮してしまっていて少し面食らっている。柄にもなく、あちこちで講演会はして来たが、女子大での講演はまったく初めてで、どんな会になるか不安でもある。

何しろ全員学生さんは平成生まれだし、日頃そうした若いお嬢さんとは全く縁がないので、どんなことになるか想像もつかない。近頃は色々な集まりに呼ばれるが先日は5回目のNMH(日劇ミュージックホール)の同窓会に呼ばれた。

若い日、ドキドキしながら眺めた踊り子さん達の集まりだが、ヌードのお姐さん達の裏の話など実に楽しかった。また近いうちに集まろうということになったが、噂通り皆さんザックバランで本当に楽しかった。

桜の頃には目黒の雅叙園で長唄の会があり、お料理もすばらしく、八王子車人形の人形による娘道成寺も堪能した。「楽しい老後を送っているなあ」と友人達に冷やかされるが、今のように長寿社会ではなく、人生50年時代には、皆老後という時代を持たず亡くなった人が多かったように思われる。

因みに少し記してみると、( )内は没年。

橋本左内(25)、北村透谷(26)、高杉晋作(28)、吉田松陰(29)、木曽義仲(30)、小林多喜二(30)、坂本龍馬(32)、近藤勇(34)、正岡子規(35)、芥川龍之介(35)、尾崎紅葉(36)、若山牧水(43)、加藤清正(49)、夏目漱石(49)、松尾芭蕉(50)、井原西鶴(51)、ナポレオン(52)、足利尊氏(53)、明治天皇(60)。

いずれも60歳未満である。

戦争は例外としても昭和20年、終戦時の平均寿命は、男(23・9歳)、女(37・5歳)という記録が残っている。

太平洋戦争末期には、学徒の徴兵年齢は19歳に引きあげられ、人生19年となった。

19歳で否応なく国家の強権により強引に取られ戦争という大量死刑台に乗せられてしまったのである。今の時代では全く考えられないことである。しかし長寿社会にも大きな問題が山積している。単に長生きだけを喜んでいる訳にはいかない。残された余命を私達はどう生きたら良いのだろうか?

話がしめっぽくなったので、最後にもう一句―

ひそかなる恋そのままに梅雨に入る(桂信子)

 

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