「私の昭和史(第3部)―昭和から平成へ― 夢見る頃を過ぎても」は昭和ロマン館館長・根本圭助さんの交友録を中心に、昭和から平成という時代を振り返ります。

松戸よみうりロゴの画像

>>>私の昭和史バックナンバーはこちら

夢見る頃を過ぎても(60)

初めて読む亡き妻の日記

根本 圭助

昭和10年2月、東京・南千住に生まれる。第二瑞光国民学校4年生の時罹災。千葉県柏町に移る。小松崎茂に師事。主な仕事は出版物、及び特にTVキャラクターのマーチャンダイジングのイラストで幅広く活躍する。現在松戸市在住。小松崎茂作品を中心に昭和の雑誌文化を支えた挿し絵画家たちの絵を展示する「昭和ロマン館」館長。現在は、「昭和の杜博物館」理事。

新婚当時の筆者と妻・美代子の写真▲新婚当時の筆者と妻・美代子

「終活」とか「断捨離」とか昔はあまり聞かなかった言葉が近頃よく目につくようになった。私のところでも、つい先日、娘と二男の嫁さんが手伝いの若い男性を連れて現れ、2週間に渉って、まるで台風に遭ったように、どんどん不用品(娘の判断で)を捨てられてしまい、日常使用していたものが見当たらなくなったり、何とも不自由な毎日を送っている。

もっとも私の家ぐらいゴミの多い家は珍しいようで、娘がリーダーで、ばんばん処分するのを、最初はドキドキハラハラで、「あっそれは残して!」等と口をはさんでいたが、途中からあきらめて目をつむってしまった。

私自身、自覚はしていないが、どうも収集癖みたいなものがあったようで中学生時代から蒐めて来た夥しい雑誌や本がどんどん処分されて行くのが身を切られるようにつらかった。

実は昨年暮、不整脈が起って、カテーテルで手術することになったが快くならないので、ペースメーカーを埋め込むことになった。

娘は結婚してすぐに夫の両親を引き取ってずっと同居してきたので介護のことにも詳しく、私の手続きなどもてきぱき済ませてくれた。

思い起こせば私の少年時代、勿論戦前の話だが、国民学校(小学校)低学年の頃、『少年倶楽部』を近所の古書店をまわって買い蒐め、大正13年の創刊号以来、昭和10年代の『少年倶楽部』黄金時代の雑誌を木のリンゴ箱で作った本箱に積めて大切に保存していたが、これらは『少年講談』や『講談社の絵本』等とともに東京大空襲で家もろともに灰燼に帰してしまった。因みに『少年倶楽部』は戦後の昭和21年『少年クラブ』と改題され、昭和37年廃刊。49年の歴史に幕を閉じている。

手許に昭和20年7月号(終戦の前の月)の『少年倶楽部』が残っているが、これは大切だからと言って処分させなかった。

「昭和ロマン館」が閉館になった折、書籍、雑誌類は、何と2トン車で5台分、「昭和の杜博物館」に運び、別棟に作ってくれた私専用の書庫に保存してくれている。

雑誌といえば、戦前の講談社―大日本雄弁会講談社発行の雑誌『キング』が私の手許に創刊号(大正13年1月号)から昭和18年までバックナンバーが揃っていた。

国民雑誌と呼ばれ、「一家に一冊」と宣伝され、最盛時は月刊雑誌ながら、毎月百万部発行したという伝説の雑誌である。量が多く今の家では収納しきれず困っていたが何年か前に凸版印刷の「印刷博物館」にお嫁入りすることになり、戦後分を含め全点引きとっていただいた。因みに昭和18年、この『キング』という誌名は「敵性用語としてまかりならん」ということで『富士』と改題。戦後再び『キング』に戻ったが、昭和32年に廃刊となっている。

 

劇団にんげん座公演「巷に雨の降るごとく」のチラシの写真▲劇団にんげん座公演「巷に雨の降るごとく」のチラシ

このような雑誌や、中学生時代から熱心に切り抜いた大好きな挿絵画家のスクラップした作品群に、現在私は埋もれて生活している。

娘が焦々して眺めているのも無理のない話で、今回は私が自慢にしていた応接セットも大きすぎると言って、本箱の幾つかとともに処分。北海道家具の大きな洋服ダンス、大きな食器棚まで皆処分されてしまった。

ビデオテープも内容のリストだけ未練たらしく残されていたが、2千本近く捨てられてしまった。

 

正直で動じない強さの人

そうした中で思いがけず段ボールの山の中から出て来たものも又数が多く、中でも亡妻の日記などは、すでに歳月の霧の中に消えかかっていたことを思い出させてくれて、先夜夢中で読み耽(ふけ)った。

妻が何かこそこそ書いていたことは、うすうす気付いていたが、亡くなった直後、一寸拾い読みしたものの切なさと多忙にまぎれてしまい忘れていた。

私は結婚直後何故か急に肥り出したので妻の日記では、そんな私を「デブ圭」と書かれていた。その後「Hマン」と呼称は変わった(これは御想像にお任せする)。

妻は極端なテレ性で、にこにこしていたが大家族を抱え家事に追われ通し。地味で正直な人柄で、小柄だったが物に動じない強さを心に秘めた女性だった。「亡くなった人は美化されて残る」というジンクスを割り引いても私には過ぎた女房だった。

 

安宅忍さん、筆者、高原晃さんの写真▲左から安宅忍さん、筆者、高原晃さん

両親と長男の私を筆頭に弟が3人。こうした大家族の中へよく飛びこんで来てくれたものと在世中から陰で手を合わせることも多かった。私の母は養女ながら、大事に恵まれて育てられたので、暢気でわが儘な点もあったが、結婚後すぐに世帯を妻に任せてしまったので、経済的に不安定な私と一緒になり、随分大変だったと思う。日記は結婚当初から始まり、長女の出産で一時途切れ、5年後の長男の誕生まで克明に綴られていた。日記の中では私に随分甘えてくれていて、読みながら私は何度か眼頭をぬぐった。

もう私も傘寿を過ぎてしまったし、じい様の世迷言として惚気(のろけ)話を書いても読者の皆様も許していただけるかと勝手に思っている。

 

左から西村つたえさん(元キングレコード歌手)、友人・大槻雪野さん、筆者、青空うれしさんの写真▲左から西村つたえさん(元キングレコード歌手)、友人・大槻雪野さん、筆者、青空うれしさん

妻の一番の楽しみは、家事が終わって入浴後私の仕事場のソファで横になり、ゆっくり新聞を読むことだった。ある時期から「お願い」と言うので大体一時間程私は妻のマッサージをすることになった。

「今夜もHマンのマッサージ。仕事で疲れているのにごめんなさい」。顔を合わせては、とても言えない私への感謝が書き連ねてあった。日記には巻末にポケットがつけてあり、二人で出かけた映画や芝居、レストランのレシートまで入れてあった。マッサージは日課になってしまい、両親はもとより後年娘まで「お願い」といってきて私のマッサージ屋は大繁盛だった。いつもそれを見ていた長男が、小学生になった頃、肩たたき券というのを作り、私と妻にくれて肩たたきをよくやってくれた。妻は大腸癌で49歳で急逝した。当時高二、中二の二人の倅と両親を抱え一時は途方にくれたが、10年近くを主夫として夢中で過ごした。私の母、つまり倅達にとって祖母の面倒も2人の倅はよく見てくれて、片親暮らしなのに二人ともよくぞ素直に成長してくれたと私自身子供達にも感謝で一杯である。妻の日記を読んで、日記の中だけでなく何故てれないで態度で示してくれなかったのかと未練も残るが、二晩がかりで涙ながらに読んだ。いつも笑顔で忙しく、口ゲンカひとつなかった24年の夫婦生活。日記の中の妻は明るく可愛い甘えん坊だった。

 

故・並木路子さん(リンゴの唄)と青空うれしさんの写真▲故・並木路子さん(リンゴの唄)と青空うれしさん

今は、友人にも恵まれ、先日は私の快気祝いをすることになり、親しい高原晃さんが仲間を集めてくれたが、流石に私はこれは辞退をした。別名目でそれでも20人もの人が集まってくれて楽しい会となった。会場が狭いので一同揃っての写真は写せなかった。

永六輔さんが応援していた浅草の飯田一雄さん主宰のにんげん座。一昨年の私の出版パーティでの出会いが縁で、東宝現代劇の安宅忍さんが昨年に続いて座長を務めることになった。東京漫才界で一世を風靡した青空うれしさん。当時の岡晴夫の司会と歌を再現してくれるとのこと、9月末の公演が楽しみである。写真では一部きり紹介出来ないが、こうしたあたたかい人達に囲まれて本当に私は楽しい老い楽(おいらく)生活を送っている。最近親しくなり、私とは同年の青空うれしさん。この方のことは改めて次の機会にもう少し詳しく書かせていただくことにする。それにしても楽しく嬉しい友人達である。皆さんのあたたかい心遣いに感謝!感謝!

 

 

 

▲ このページのTOPへ ▲