松戸の城跡を訪ねて(5)

 「千葉県所在中近世城館跡詳細分布調査報告書Ⅰ 旧下総国地域」(平成7月3月・千葉県教育委員会)には松戸市内に20か所の城館跡が記されている。最終回となる今回は、残る8か所の城跡・館跡について紹介する。

市内城郭分布図

馬橋城

以前に紹介した馬橋城は三ヶ月馬橋城で、こちらは南竜房あたりにあったとされる城跡である。「東葛の中世城郭」(千野原靖方・崙書房出版)には馬橋龍房山城跡とある。同書には「前田川の谷津に面して、北から南へ突出する舌状台地上の八ヶ崎字掘込にあったと推定される城跡で、一帯はかつて『龍房山』と呼ばれた」「堀込台地の西側には、南龍房から北東へ入り込む浅い谷津があり、かつてその谷津から台地の中を東方へ空堀状の窪地がのびていたとみられる。すなわち、空堀・土塁あるいは丘陵上の段差によって城域を区画していた可能性もあり、その場合の城域は南へ突出した字掘込の台地の東西約350メートル、南北約200メートルの範囲が推定される」とある。

 

 

馬橋城があったと思われる台地の下にある北竜房湧水の写真▲馬橋城があったと思われる台地の下にある北竜房湧水

 

 

しかし、城の存在を示す史料などはなく、現地も住宅地となっており、昔の面影はない。台地の下の公園に「北竜房湧水」という湧水があるだけだ。

(馬橋字南竜房)

 

 

 

 

 

向台館があったと思われる台地の上にある鹿島神社の写真▲向台館があったと思われる台地の上にある鹿島神社

向台館

戦国時代、この地域を支配していた高城氏の居城・小金城跡の北東に向かいあうように家老屋敷があったとされているが、遺構などはない。近くには鹿島神社、慶林寺、JR北小金駅がある。

(殿平賀字大門村)

 

 

 

 

 

千駄堀館があったと思われる台地の上にある香取神社の写真▲千駄堀館があったと思われる台地の上にある香取神社

千駄堀館

千駄堀台地南部の字南屋敷一帯にあったと推定される中世城館跡。台地の東側から北側にかけての谷津は二十一世紀の森と広場になっている。香取神社の東方にかつては土塁跡と見られる遺構があったが、今はなくなっているという。神社近くの辻には青面金剛などが並んでいて趣がある。

(千駄堀字南屋敷)

 

 

 

 

幸田城があったと思われる台地の中心にある幸田貝塚の写真▲幸田城があったと思われる台地の中心にある幸田貝塚

幸田城

年代、築城主とも不明。台地の中央部には幸田貝塚のある幸田第一公園がある。この地に城郭があったという伝承も記録もないが、昭和30年の縄文遺跡の発掘調査の際に、中世城郭の遺構と思われる空堀と土塁の痕跡が確認された。その後の発掘でも城の遺構が発見された。ほかに字戸道原の食い込みの部分に腰郭的な遺構があり、字花輪から崖下に下りる所に蔀(しとみ)土居(土塁の一種)が設けられていた。明の永楽通宝や北宋の至和元宝などの銭貨も出土したという。

この台地からは流山市の鰭ヶ崎、思井、中、芝崎、前ヶ崎の台地が一望できるが、これらの台地には高城氏の重臣の居館や支城が数多く存在しているという。

(幸田1~2丁目)

 

 

 

金ヶ作陣屋

八柱のさくら通りを少し入ったところに市教委が建てた金ヶ作陣屋跡の標柱がある。説明書きには「かつて東葛地方には、使役や軍役に用いる馬を確保するために小金牧という大規模な放牧場がありました。金ヶ作陣屋は牧の管理を司る在地の役所でした」とある。

 

八柱のさくら通りにある金ヶ作陣屋跡の標柱の写真▲八柱のさくら通りにある金ヶ作陣屋跡の標柱

また、近くにある門前公園の中にも説明板があり、「江戸時代、荷役用の駄馬や軍役馬を大量に確保するため、徳川幕府は各地に多くの『牧』を置きましたが、東葛地方にも『小金牧』と呼ばれた広大な牧が置かれていました。この小金牧は、さらに3つの小さな牧に分けられており、現在の松戸市域の東側はその内の1つ「中野牧」に含まれていました。ここ金ヶ作には、おおむね牧の中心に位置すること、江戸への便が良いことなどから牧を管理する陣屋が設けられていました。規模は南北が約150メートル、東西約200メートル、面積約3ヘクタール。この説明板の後方の高台と、県道をはさんだ右側の一帯に位置していました」とある。

(常盤平陣屋前)

 

中金杉城があったと思われる台地上にある廣徳寺の写真▲中金杉城があったと思われる台地上にある廣徳寺

中金杉城

中金杉台にあったとされる城跡。ここには高城氏の菩提寺・廣徳寺がある。廣徳寺は小金築城とともに栗ヶ沢から移されたと伝えられるが、出城の機能を有した東漸寺と同様に一定の役割を果たしていたとも考えられる。

(殿平賀)

 

 

 

 

 

上本郷館跡に祀られたと思われる風早神社の写真▲上本郷館跡に祀られたと思われる風早神社

上本郷館

風早神社のある台地上にあったと思われる館跡。

鎌倉時代、千葉氏一族の四郎胤康は、風早四郎入道と称した。この胤康の館の跡地に風早神社が祀られたと思われる。

(上本郷1丁目)

 

 

 

 

 

 

「殿内」バス停にある水戸家御鷹場役所跡の標柱の写真▲「殿内」バス停にある水戸家御鷹場役所跡の標柱

水戸家御鷹場役所

小金原団地の「殿内」のバス停に市教育委員会が建てた水戸家御鷹場役所跡の標柱がある。説明書きには「江戸時代初期の寛永年間か正保年間ごろ、幕府は小金領200ヶ村を水戸家に与えました。水戸家はこれを鷹場として御鷹場役所を設けます。その後80ヶ村に縮小しますが、水戸家の鷹場は幕末まで存続しました」とある。バス停「表門」もこの屋敷に由来するという。

同地は小金牧という広大な放牧場の一部だった。当時は江戸城から20キロまでが将軍家の鷹場、その先40キロまでが御三家の鷹場とされ、この範囲では多くの細かい取り決めによって鳥獣が保護されていた。徳川家鷹場の境界に位置する松戸では日暮・河原塚・和名ヶ谷付近から南が将軍家、それ以外は水戸家の鷹場とされ、水戸街道松戸宿の入口にも「水戸御鷹場」という杭が立てられていたという。

松戸には水戸の黄門様(水戸光圀)にまつわる昔話が多く伝わるが、こうした事情によるものと思われる。

(小金原1~4丁目)

※参考文献=内容は「東葛の中世城郭」(千野原靖方・崙書房出版)、「日本城郭体系第6巻」(松下邦夫・新人物往来社)、所在地は「千葉県所在中近世城館跡詳細分布調査報告書Ⅰ 旧下総国地域」(千葉県教育委員会)より。

(おわり)