松戸の城跡を訪ねて(2)

 前号掲載の高城氏の支配地域についての記述について、田嶋昌治さん(松戸史談会会員)より、「神奈川県海老名市、横浜市戸塚区など」は正しくは「綾瀬市、横浜市栄区」ではないかとの指摘がありましたので、ここに記します。

 市内には数多くの城の跡では、と思われる場所がありますが、市教育委員会の発掘調査が行われ、城跡と確認されたのは、前号で紹介した根木内城、行人台城、小金城の3か所だけです。今回から紹介する他の城跡と思われる場所については、場所がはっきりしなかったり、参考にした著書によって違うことが書いてある場合もあります。それは地形や伝承による推測で書かれている場合も多いと思われるからです。まず、そのことをお断りして、本シリーズを続けます。

岩瀬の聖徳大学内にある経世塚の写真▲岩瀬の聖徳大学内にある経世塚

相模台城

 1249年、北条長時により築城。別名・岩瀬城。

 松戸中央公園や聖徳大、第一中、相模台小などがある相模台にある。

 鎌倉幕府の源将軍家が3代続いた後、幕府の実権は頼朝の妻・政子の実家、北条家に移った。6代執権北条長時は、東金市と松戸市岩瀬に城を築き、数代にわたってその家臣が居城したという。鎌倉時代末の1326年には14代執権北条高時が出家して、岩瀬に居城した。高時が相模守(さがみのかみ)であったことから、この地を相模台というようになったという。

 

西口デッキで行われた「おこめのいえ手創り市」の写真

 高時は、上野(こうずけ・群馬県)で挙兵した新田義貞に攻められて鎌倉の東勝寺で自殺し、鎌倉幕府は滅亡した。この時、相模台城も落城。後に芳賀兵衛入道禅可や新田義徳などが住んだ。

 戦国時代には高城氏の支配地となり、1538年の相模台の戦いはこの地を中心に行われた。聖徳大学内に足利義明ら戦死者を弔う経世塚がある。(岩瀬)

 

 

 

 

 

 

 

 

馬橋城の鬼門にあったとされる蘇羽鷹神社の写真▲馬橋城の鬼門にあったとされる蘇羽鷹神社

馬橋城

 文永年間(1264~75年)、千葉頼胤により築城。別名・小金城。千葉氏の守護神である蘇羽鷹神社が城の鬼門と思われる場所にある。また、千葉氏の家紋である三日月がこの地の地名になっている。

 中根妙見社(中根城=次号掲載予定)の伝説に出てくる「小金城」はこの城のことだろうか。城の南側低地にある萬満寺の前身の大日寺は、千葉頼胤が代々の鎌倉の将軍と千葉一門の菩提を弔うために建立したという。

 頼胤は肥前国に所領があったため1274年の文永の役(蒙古襲来)に出陣し、その時の傷がもとで37歳で亡くなった。九州千葉氏の祖である。(三ヶ月字三ヶ月台)

 参考文献=「松戸の歴史案内」(松下邦夫)、「日本城郭体系第6巻」(松下邦夫・新人物往来社)