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- カテゴリ: 城跡探訪
- 2015年7月26日(日曜)09:00に公開
- 作者: 戸田 照朗
松戸の城跡を訪ねて(3)
本シリーズでは第786号で根木内城、行人台城、小金城を、続く第787号で相模台城と三ヶ月馬橋城を紹介した(ご興味のある方は弊社ホームページ、市立図書館本館、県立西部図書館のバックナンバーをご覧ください)
今回掲載した地図には前回より7か所の城館跡を加筆した。
1990年度から95年度にかけて、千葉県による中近世城館跡詳細分布調査が実施され、「千葉県所在中近世城館跡詳細分布調査報告書Ⅰ―旧下総国地域―」がまとめられた。
それによると、松戸市内には20か所の城館跡が記されている。
享徳3年(1454)12月27日に、鎌倉公方足利成氏が関東管領上杉憲忠を謀殺したという事件をきっかけに、関東地方は畿内より早く戦国時代に突入した。戦乱の時代の到来は各地に築城ラッシュをもたらしたのではないかという。
調査によると千葉県全体では1048か所の城館跡があった。これは、茨城県の約600か所、群馬県の約1040か所、栃木県の約410か所、埼玉県の680か所、東京都の約170か所、神奈川県の約400か所に比べて関東地方でも特段に多い地域になるという。
松戸城(松渡城)
市教育委員会の発掘調査が行われ、城跡と確認されたのは、第786号で紹介した根木内城、行人台城、小金城の3か所だけだ。しかし、文正元年(1466)6月3日付けの足利義政御内書写という史料に「松渡城郭」という文言がみえることから、戦国時代前半の城館として確実だといわれている。
詳細な城の場所や構造などは不明だが、少なくとも松戸市戸定歴史館のある場所が城の一角ではなかったかと推測されている。
戸定は「外城」とも読めることから、「戸定歴史館の高台は広い面積を有する松戸城の外郭の一角という位置付けになるのかもしれない」(松戸市史 上巻 改訂版)。あるいは、「岩瀬城(相模台城)築城期に根本城などと共に、支城として築かれたものとも思われる」(日本城郭体系第6巻)。
松下邦夫氏が執筆した「日本城郭体系 第6巻」(新人物往来社)の松戸市の部分によると、寛正6年(1465)6月に千葉氏の一族の原信濃入道とその子の八郎が、上杉氏に対して、この城に立こもったとする史料があるという。
天正十年(1582)には、小金城主高城胤辰の一族、高城筑前守が城主だったという。
近世に入ると、松戸村は徳川氏の旗本知行地となり、高木筑後守正次が在城。文禄2年(1539)からはその子、正勝が明暦3年(1657)まで在城したという。
遺構としては、松雲亭南側に人工的な入り込みがみられるほか、旧福島県学生寮南側に、かつては空堀の痕跡があったという。
旧福島県学生寮から千葉大園芸学部旧正門の向かって左側にある竹内節斎墓石にかけての場所は、享保10年(1725)と翌年に行われた八代将軍徳川吉宗の小金原鹿狩りの際に休憩所として使用された景勝の地で、かつての見張り台や土塁、空堀を破壊した可能性があるという。
戦後の土取りの際に、付近から10枚近くの板碑も発見されたという。また、西側低地にある円慶寺境内には松戸城に関係したと思われる妙見社の石宮が移されているという。
「松戸市史 上巻 改訂版」によると、戸定歴史館の西側台地下には「根古屋」という小字が残されており、これは山城などで山麓の屋敷地や城下町の一角を示す語彙(ごい)だという。台地上の中核部に対して、西側の低地部に城下集落が存在したと推測できるという。
松戸城は「松戸の渡し」を見下ろす重要な地点にあった。
松戸城がいつごろからあったのかは分からないが、平安時代に書かれた『更級日記』には、「太日川(ふとゐがわ)というが上の瀬、まつさとの渡りの津に泊まりて夜一夜、舟にてかつがつ物などを渡す」という一文が出てくる。「まつさと」というのが、松戸のことで、松戸の地名が表れた最も古い文章としても知られる。
『更級日記』は菅原孝標女(すがわらたかすえのむすめ)が、50歳を過ぎてから約40年間を回想して書いたもの。上総の国の国府に赴任していた父菅原孝標が、寛仁4年(1020)京都に帰国することになり、13歳の娘が父について帰国する様子から書き始めている。この文章はその道中、太日川を松戸あたりから渡った様子が書かれている。
「太日川」というのが現在の江戸川のこと。松戸から下流は昔からあった自然な流れなのだが、関宿から野田までの18キロは江戸時代に近隣の農民が鍬や鋤、もっこを使って人力で下総台地を開削したものである。特に松戸から河口までの下流は「太日川」と呼ばれていたようだ。
参考文献=「日本城郭体系 第6巻」(新人物往来社/松下邦夫)、「松戸市史 上巻(改訂版)」(松戸市)